ケット人は日本にも来た

ケット人は日本にも来た(アメリカ先住民族と日本人)
前回、北米インデアンは、ケット人などアジア北部の民族であり、アメリカに移住した時期は2000年前以降の最近のことと推察しました。
一方、ケット人に多いY染色体ハプログループQは日本人の中にもあることが分かっています。そこで、今回は、ケット人は何時頃、どのように日本に来たのか愚考します。
まず、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)ですが、Hammerら(2005)およびNonakaら(2007)によれば下表のとおりです。この表から、0.0~0.7%という僅かですがケット人系の人(Y染色体ハプログループQ)が認められます。そして、Nonaka(2007)らのデータで見れば、Qは0.7%ですが関東に居る感じです。

一方、ケット人に似た埴輪が、その関東で見つかっています。千葉県教育委員会の「芝山古墳群(殿塚・姫塚)出土埴輪」によれば次の通りです。
芝山古墳群(殿塚・姫塚)出土の埴輪は、表情豊かな人物埴輪が多いことで知られる。通常、殿塚・姫塚出土埴輪として一括して扱われるが、このうち一般に広く知られているのは姫塚古墳出土の埴輪群である。
姫塚古墳出土埴輪の中でも有名なのは、あごヒゲを蓄えて帽子(又は天冠)をかぶる一連の男性の全身像埴輪である。あごヒゲを蓄える人物埴輪は主に茨城県と千葉県に分布していることが知られているが、千葉県内での分布は茨城県に比べて少なく、山武地域と千葉市内でわずかに出土例が知られている。この他に、馬子と考えられる人物埴輪、島田髷を結う女子人物埴輪、馬形埴輪、家形埴輪などが主要な埴輪である。また、馬形埴輪に横乗り用の板鐙(いたあぶみ)がつくものがあったり、大刀を斜めに背負う男子人物埴輪があったりと、他の古墳出土の埴輪には見られない特殊な埴輪も出土した。(引用終了)
この記事では「あごヒゲを蓄えて帽子をかぶる一連の男性の全身像埴輪」という埴輪があり、それらは日本人離れした顔つきをしており、そのルーツは謎にみちているようです。
関連し、その埴輪とケット人の写真を上トップに示しました。このケット人は鼻も高くあごヒゲも蓄え、埴輪にそっくりです。そこで、現在知られている情報を総合しますと、この埴輪のモデルは北方から来たケット人以外に考えられません。
次に、このモデルが来た時期ですが、この埴輪が出土した古墳は6世紀後半ですので、モデルはその時期に日本に居た人物になります。
なぜ、その時期(6世紀後半)に居た人物かと言いますと、一般に、外国人は日本人と結婚すると、その外国人に似るのは子供(第一世代)までで、その後数世代過ぎると外国人の血(DNA)は薄くなり、ルーツが分からなくなってしまうのが普通だからです。
そして、この時期にケット人が日本に来たということは、北米に移住したのも同じ時期と推定され、この埴輪は、ケット人のアメリカ移住時期は2000年前以降という説の物的証拠となります。
なお、実際の人数は、Koyama (1978)の報告を参考にしますと、当時(6世紀)、関東の人口は約943300人、ケット人はその0.7%ですので、約6600人になります。芝山古墳群出土の埴輪から彼らは武人だったことが推定されます。全員が武人ではありませんが、これほどの人数となると、目だった存在だったと思われます。
関連し、ケット人の日本移住を下に示しました。


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