人口変動から邪馬台国は九州にあったと思われる

人口変動から邪馬台国は九州にあったと思われる(西日本の古代)
古代の人口について検討してきました。今回は、これらのデータを用い、邪馬台国の場所について愚考します。
まず、使ったデータを下表に示しました。縄文時代晩期(BC900年)はKoyama(1978)、弥生時代(200年)は前々回の拙ブログ推定、古墳時代(500年)は前回の拙ブログ推定、そして、奈良時代は前回紹介の鬼頭宏(1996)の推定を用いました。

地域は、邪馬台国があった場所と言われている九州と近畿(三重を含む)、そして、古墳時代人口が多かった中国を取り上げました。
まず、各地域の人口変動散布図を上トップに示しました。この図から、邪馬台国の時代(3世紀前半)、人口は九州で約45万人、近畿で約25万人ですので、明らかに九州で多くなっています。
また、邪馬台国時代あたりから九州の人口は増加が緩やかになっていきますが、これは魏志倭人伝にあります倭国の大乱の結果、すなわち、戦争で人口増加が止まった結果と思われます。
九州では、その後、倭国が興り、5世紀には倭の五王時代を迎え、倭国の全盛期を迎えます。しかし、663年の白村江の戦いに唐軍に敗れ倭国は滅亡しますが、そうした様子が人口変動からも伺えます。
一方、近畿ですが、3世紀頃の邪馬台国時代の人口増加は緩やかです。6世紀前後から急に増え、九州の人口を抜きります。6世紀は、初めて畿内政権が確立した時期、すなわち継体王が現れた時期と拙ブログでは観ていますが、この勢いから日本の中心地は九州から近畿に移ったと観ることができます。
なお、中国ですが、邪馬台国時代は近畿よりやや多い人口です。古墳時代は吉備国を中心に近畿よりも勢いがあったと思われますが、中国地域は6世紀に近畿に抜かれ、近畿に取り込まれていった感じがします。
まとめますと、邪馬台国時代の3世紀、九州の人口は、どの地域よりも圧倒的に多く最大です。かつ、魏志倭人伝にあります倭国の大乱が人口変動からも読み取れます。そうした古代の人口動態は、邪馬台国は近畿よりも九州にあったことを示唆していると思われます。

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