古代の近畿・中国の中心地は岡山だった
2 Comments
レインボー

古代の近畿・中国の中心地は岡山だった(西日本の古代)
前回、古代の遺跡数から、奈良は遺跡数が少なく地域の中心地では無かったことを検討しました。今回は、近畿・中国地域全体を眺め、これらの地域の中心地について検討します。
まず、「文化庁の参考資料:平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数」を基に、各県の旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡数を比較してみました。下の表は、そのデータです。上の図は関連図です。

この表では、岡山県が、弥生時代遺跡数を含めすべての項目で最大数値を示しています。因みに古墳時代遺跡数は岡山が2108で1位、2位は島根の1002で、岡山が断トツ1位です。まさに、岡山は旧石器時代から古墳時代にかけて地域の中心地だったと思われます。
そして、岡山に吉備国があったことが知られていますが、吉備国は地域の中心地の役割があったと思われます。
また、島根ですが、島根には出雲国があったことが知られています。しかし、古墳時代遺跡数は岡山(吉備国)の半分程度ですので、その規模は吉備国の半分だったと推察されます。
関連し、古墳時代中心地と言われる奈良ですが、古墳時代遺跡数は787、岡山に比べ37%です。古墳時代においても奈良は辺境の地だったと思われます。
事実、確認できる我が国最初の畿内の大王として「継体王(在位:507~531年)」が知られておりますが、彼の最初の王宮は奈良ではなく大阪の地に建造されました。
そこで、奈良が何時から日本の中心地になっていったのか検討しますと、次のとおりです。
まず、奈良の地では、592年から聖徳太子が活躍した飛鳥時代に入ります。そして、条里制に基づく畿内最初の都「藤原京」が102年後の694年に建造され、その後、平城京が作られ、710年から奈良時代に入ります。
奈良には黄金の大仏が建造され、国際的にも日本の都として認められるようになりました。すなわち、都が定められた奈良時代から、奈良は日本の中心地として認められ、人口も増えるようになったのが真相と思われます。
そして、我が国最初の国書と言われる日本書紀と古事記ですが、これらは奈良で作られ、奈良は神武天皇の時代から中心であったように物語が作られたと思われます。そうした物語を事実のように見せる遺跡として、奈良と近隣の大阪の地に大規模古墳が存在しております。
しかし、これらと同じような大規模古墳は他地域にも散見されます。大規模古墳があるから、そこは昔から日本の中心地だったというには無理があります。
さらには、これら大規模古墳について、どれ一つとして王名が確認できるものはありません。仁徳天皇陵とか応神天皇陵がありますが、それらを証明する物的証拠は見つかっておりません。
因みに、物的証拠が見つかっているのは、先に紹介した「継体王(在位:507~531年)」の時代からです。そして、継体王の陵墓でさえも、「今城塚古墳は真の継体天皇陵」と認められるようになったのは最近のことです。

日本史ランキング