岡山は古代日本の中心地だった
0 Comments
レインボー

岡山は古代日本の中心地だった(西日本の古代)
前回まで、福岡(北九州)は、マレー系民族が多く、水田稲作導入が早く、国家も早く形成されたことを指摘しました。一方、その他の地域は稲作導入について700年の遅れがあり、国家形成も遅れたことを指摘しました。
関連し、今回は、北九州を除けば、岡山(吉備)は古代日本の中心だったことについて愚考します。
前回、岡山は、弥生時代遺跡数、古墳時代遺跡数が圧倒的に多く、東海・近畿・中国地域の中心地だったことを指摘しました。
Wikipediaによれば、吉備国は次のように紹介されています。
・・・ 古墳時代、吉備地方の現在の岡山平野南部は内海となっていた(吉備穴海、もしくは吉備内海と呼ばれる)。4世紀からこの内海の近くに多数の前方後円墳が造られた。この地方独特の特殊器台・特殊壺は、綾杉紋や鋸歯紋で飾られ、赤く朱で塗った大きな筒形の土器で、弥生時代後期の後半(2世紀初めから3世紀中頃まで)につくられ、部族ごとの首長埋葬の祭祀に使われるようになり、弥生墳丘墓(楯築弥生墳丘墓)や最古級の前方後円墳(箸墓古墳・西殿塚古墳)から出土しており、後に埴輪として古墳時代に日本列島各地に広まった。 ・・・
6世紀半ばからは巨大な石で構成した横穴式石室を持つ円墳が造られた。吉備は弥生時代からの塩の生産地であり、さらに6世紀後半には鉄生産が開始された。造山古墳、作山古墳は築造当時の日本列島で最大級、現存する日本の古墳のうちでも第4位及び9位の規模をもち、吉備地方の繁栄とこの地の豪族の力を示すものである。(引用終了)
引用をまとめますと、吉備は、弥生時代は塩の生産地として栄え、古墳時代は埴輪のルーツがあり、優れた製鉄所もあり、大きな古墳が建造された、とあります。
また、稲作ですが、岡山に陸稲栽培が6000年前に行われていたことが確認されています。おそらく、こうした背景もあり、中国地域で一早く水田稲作が導入され、広がったと思われます。
そして、この水田稲作は全国に広がる先駆けとなったと思われます。例えば、関東の最古の稲作遺跡として「中里遺跡」が知られておりますが、その遺跡では瀬戸内地域(おそらく吉備国)の影響のある土器が発見されております。
また、奈良に纏向遺跡(3~4世紀)がありますが、その遺跡では吉備国(岡山)関係の土器が発見されており、吉備国の影響があったことは間違いないと言われております。
Wikipediaの記事を含め、以上の事例から、おそらく、弥生時代から古墳時代にかけて、吉備国は地域の中心であり、かつ、日本全体に影響があったと思われます。
そして、畿内で実在が確認できる王は継体王(在位:507-531年)からですが、その政権が畿内にできるまで、吉備国は東海・近畿・中国地域の中心地として栄えたと思われます。
事実、上記の引用にもありますが、「造山古墳、作山古墳は築造当時の日本列島で最大級」で、これらは、畿内に先んじて建造された王墓と思われます。因みに、造山古墳は5世紀前半、作山古墳は5世紀中頃の建造物で、継体王出現前の建造物です。
以上のことをまとめますと、マレー系民族中心の北九州の倭国を除けば、日本は、吉備国(5世紀)から継体王の畿内政権時代(6世紀~)へ中心地が移動していったと観ることができます。
関連し、こうした4~5世紀の状況を上トップ図に示しました。

日本史ランキング