fc2ブログ

文字は何時頃から使われていたのか

0 Comments
レインボー
6世紀の日本


文字は何時頃から使われていたのか(西日本の古代)

前回まで、先進地の倭国と後進地の吉備国の状況について検討してきました。そして、先進地と後進地の違いですが、文字が使われていたかどうかが一つのポイントと思われます。

関連し、今回は、「文字は何時頃から使われていたのか」について愚考します

まず、先進地の北九州の倭国は文書を持って中国に朝貢しましたので、文字は使われていたことは明らかです。この証拠として、西新町遺跡(福岡市早良区) (奴国)で硯が発見されています。

その記事を引用しますと次のとおりです。

西新町遺跡で邪馬台国の時期と重なる古墳時代前期(3世紀半ば~後半)に使用されたとみられる硯(すずり)5個が発見された。
 同遺跡は『魏志倭人伝』に出てくる「伊都国」と「奴国」の中間に当たり、倭の貿易港として発展したとみられるという。
[西日本新聞](引用終了)

関連し、我が国最初の万葉仮名の使用例ですが、57年に後漢に朝貢して授けられた倭(委)奴国の金印の倭奴国が最初で、続いて107年に後漢に朝貢し、後漢書東夷伝に記述された帥升(名前?)があります。これら倭奴国や帥升が万葉仮名に当たるのか不明ですが、続いて、邪馬台国関連の魏志倭人伝に地名、国名、人物名の記述に多数の万葉仮名を見ることができます。

一方、吉備国ですが、文字に関連する歴史的遺跡は全くありません。おそらく、王は居ても行政組織が未発達だったのはこのためと思われます。

そして、歴代天皇で実在が確認できるのは「継体王(在位:507-531年)」からですが、継体王は百済の支援で五経博士を受け入れ文書部を作りました。さらに、行政組織も作りました。まさに、畿内の本格的政権は継体王から始まり、文字もこの時から使われたと思われます。

まとめますと、文字使用は、北九州の倭国では3世紀以前から、畿内では6世紀からになります。そして、畿内政権の文書が中国の歴史書に現れるのは7世紀の遣隋使からになります。

こうした6世紀の状況を上トップ図に示しました。



日本史ランキング
レインボー
Posted byレインボー

Comments 0

There are no comments yet.