空白の時代があったのか

空白の時代があったのか(西日本の古代)
日本の古代史で「4世紀は空白の時代」と言われることがあります。
例えば、「初心者のための日本史研究」によれば次のとおりです。
空白の古代日本
日本における初めての歴史書は、「古事記」および「日本書紀」である。
これらはいずれも奈良時代(古事記は712年、日本書紀は720年)に完成している。
しかし神話的な記述も多々あるため、全ての記述を歴史的事実として扱うことはできない。
中国の歴史書にある日本に関する記述は、266年から412年までの間はまったくの空白となっている。
そのため、「空白の4世紀」「謎の4世紀」と呼ばれ、古代史のなかで最も謎の多い時代となっている。
この間に邪馬台国の時代は終わり、いつのまにか大和朝廷が誕生していた。
古代日本の重要局面であったはずだが、確かな事は何一つわからない。
歴史に「もしも」はないが、邪馬台国から大和政権への移行の様子が記録された文献が残っていれば、「弥生時代から古墳時代へ」ではなく、「邪馬台国時代から大和政権時代へ」あるいは「ヤマタイ時代からヤマト時代へ」という時代区分になっていたかもしれない。(引用終了)
関連し、今回は、この空白の4世紀に、何があったのか愚考します。
まず、拙ブログで指摘しているところの北九州の倭国、そして、後の近畿の畿内政権の成立過程について知られていることは下の年表のとおりです。

この年表では、倭国と大和政権を分けて表示しています。しかし、倭国を無視している記紀では、中国の歴史書にある卑弥呼時代と倭の五王時代は名前を伏せて、当てはまる天皇が居たかのように記述しております。そして、3世紀~5世紀のことは、何も無かったかのような 感じになっています。
拙ブログでは、大和政権ができたのは「継体王(在位:507~25)」からと判断しております。すなわち、継体王については、文書部があり、外国とも交渉があり、王宮跡も発見されており、存在が確認できますが、それ以前の王は記紀に記されているだけの王であり、実在を証明する物的証拠がありません。
そこで、継体王以前の王を地方の王として観る、そして、大和政権以前には、中国の歴史書にある倭国が九州に存在したことを認めれば、「4世紀は空白の時代」では無くなると思われます。
事実、北九州では、3世紀に邪馬台国があり、女王卑弥呼の後にトヨが女王となったことが分かっています。そして、その後、倭国に統一王朝ができ、倭国は朝鮮半島に出撃し399~404年に高句麗と戦ったことが広開土王碑文に書かれております。
なぜ倭国が高句麗と戦ったのかですが、倭国は稲作民族のマレー系民族の国だったためと思われます。朝鮮半島には同じルーツを持つ百済という国があり、高句麗に圧迫された同胞の百済を支援するため、朝鮮半島で高句麗と戦ったというのが真相と思われます。
因みに、Kudara(百済)のマレー語の意味は同胞(Kudara=Brother)です。倭国の人々は、百済のことをクダラ(Kudara、同胞、仲間)と呼んだため、日本では、これが百済の読み方になったと思われます。
また、朝鮮半島の民族のルーツを調べますと、「マレー系のDNA(Y染色体ハプログループ O1b)は約30%」あります。これは日本とほぼ同じ割合です。朝鮮半島に水田稲作を持ち込んだのはマレー系民族ですが、弥生時代稲作は百済方面(韓国西南部)に多いことが分かっています。
一方、日本ではマレー系のDNAは北九州に多いことが指摘されています。
以上のことから、北九州にあった倭国の存在を認めれば、日本史に「4世紀は空白の時代」では無くなると思われます。
関連し、4世紀の状況を上トップに示しました。

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