岡山の縄文稲作は弥生稲作とリンクしている

岡山の縄文稲作は弥生稲作とリンクしている(西日本の古代)
岡山県は弥生時代遺跡が突出して多いところであったこと、その結果、古墳時代には西日本の中心地になったことを先に紹介しました。
一般に弥生時代は水田稲作導入と関係しております。関連し今回は、岡山県の弥生時代稲作のルーツ、特に縄文時代稲作について愚考します。
まず、縄文時代稲作ですが、「ゆらぐ縄文時代 稲作はどこまでさかのぼる?」によりますと次のとおりです。
ごく最近まで、稲作が始まったのは弥生時代の初め、年代でいうと紀元前4~5世紀と推定されていた。 ところが平成15年の国立歴史民俗博物館の報告によると、弥生時代の土器に付着している「ふきこぼれ」の放射性炭素を加速器質量分析法(AMS法)によって測定したところ、考えられていたよりも500年も時代をさかのぼるという結果が出たというのだ。これが正しいとすれば稲作が紀元前10世紀ごろに始まったということになる。 この報告は考古学の世界を震撼させている。 紀元前10世紀から5世紀までは縄文時代晩期そのものであり、稲作の始まった弥生時代と縄文時代晩期が全く重なってしまう事になるからである。考古学の世界で長い間信じられてきたことをもう一度検証しなければならなくなったため、この問題をめぐって考古学界はいまや大論争の渦中にある。
岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が大量に見つかり18日、灘崎町教育委員会が発表した。 この時期のプラントオパールが大量に見つかるのは全国初という。イネの栽培をうかがわせ、これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)をはるかにさかのぼる可能性がある。縄文時代の農耕開始をめぐる議論に一石を投じそうだ。 同教委によると、プラントオパールの数は土壌1グラム中2000-3000個。岡山理科大の小林博昭教授と、ノートルダム清心女子大の高橋護・元教授が、地表から約2メートルの炭の混じった地層を中心に検出。イネのほかにキビ、ヒエ、小麦など雑穀類のプラントオパールも検出されているという。 当時、貝塚は海岸部にあり、イネは近隣から貝塚に持ち込んだとみられる。貝塚には墳墓があることやイネのもみ殻のプラントオパールも見つかっていることから、祭祀(さいし)の際の宴会や脱穀などの共同作業で持ち込んだと推定されるという。 高橋元教授は「見つかったイネは中国南部原産の可能性があり、大陸から伝わったイネではないか」と話している。 縄文時代のイネについてはこれまでも同教授らのグループが調査。4500年前(縄文中期)の姫笹原遺跡(岡山県)や6000年前の朝寝鼻貝塚(岡山市)でプラントオパールを検出してきた。しかし微量だったことから、上層からの混入や中国大陸から風で飛ばされてきたのではないかなどという疑問の声も根強かった。 (2005.2.18 共同通信) 小林達雄国学院大教授(考古学)の話 縄文時代を考える上で重要な成果であり、努力に大いに敬意を表したい。縄文時代の中期や前期に、断続的にイネが入ってきたとしても不思議ではない。重要なことはイネがあったかなかったではなく、あったとしても縄文経済や食生活に影響を与えなかった点だ。農耕とは呼べず栽培という程度であり、イネは多種多様な食べ物の一つにすぎなかったのだろう。(2005.2.18 共同通信)(引用終了)
引用が長くなりましたが、この報告をまとめますと、岡山県では6000年前から海岸部(下図参照)で稲が作られていたことになります。この稲は、縄文時代の稲ですので、陸稲だったと思われます。

関連し、岡山県周辺の古代遺跡数を下図に示しました。この図から、岡山県は、旧石器時代、縄文時代を通じて遺跡が多く、中国近畿地域の中心地域だったことが分かります。

そして、以上の縄文時代稲作は、次の弥生時代水田稲作と関連していると思われます。事実、弥生時代水田稲作遺跡も縄文時代稲作跡のあった灘崎町彦崎貝塚近辺に多いことが分かります(上図参照)。
言い換えますと、こうした縄文時代稲作の経験があったから、岡山は水田稲作を中国地域で一早く導入し、弥生遺跡数も多くなったと思われます。
関連し、岡山県灘崎町の縄文時代稲作(陸稲)が弥生時代水田稲作へ発展し、それが近辺に普及していく様子を上トップ図に示しました。
次回は、岡山県の稲作民族は誰だったのかについて愚考します。

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