稲作民族が朝鮮半島から来たのか

稲作民族が朝鮮半島から来たのか(西日本の古代)
戦争について思いを巡らせる夏がきたことと関連し、東京新聞(2019.7.27、4面)に、「人はなぜ戦うのか」、「農耕が生んだ支配」という見出しで記事が出ておりました(上の新聞写真参照)。
その記事では、「日本列島で集団的な戦いが始まったのは、朝鮮半島から渡ってきた人々が稲作文化を広めた弥生時代だそうですね」という東京新聞論説委員の問いに、国立歴史民俗博物館教授の松本武彦氏が次のように応えています。
「紀元前10世紀後半(3000年前頃)に玄界灘を越えて九州に上陸したと考えられています。難民だったか開拓だったか分かりません。水稲のノウハウや技術とともに戦いの思考も携えてきた。・・・」
この「稲作民族が朝鮮半島から来た」という認識ですが、これは日本人の一般的な古代の歴史認識と思われます。今回は、この歴史認識の妥当性について愚考します。
まず、日本人はアイヌ系が35%、マレー系が30%、ツングース系(韓国人系)30%ですが、稲作民族はマレー系です。このマレー系が居住していた朝鮮半島から稲籾を携えて日本に来たのかは定かではありません。
岡山県に6000年前の稲作遺跡があった等から想像しますと、マレー系民族は稲籾を携えて6000年以上前から日本に居たことはほぼ確かです。
そして、福岡県の3000年前頃の「菜畑遺跡」で水田稲作跡と推察される遺跡が発見され、水田稲作はこの頃から始まったと言われています。
一方、「朝鮮半島原始時代農耕集落の立地」(後 藤 直)によれば、朝鮮半島の水稲農耕は3000年前頃、南部で始まったとあります。
関連し、中国南部に大規模な稲作遺跡として7000年前の河姆渡(かぼと)遺跡が知られておりますが、朝鮮半島と北九州の水稲作は、この河姆渡遺跡以降の水田稲作がモデルになっていると言われます。
以上の知見を総合しますと、水田稲作は、朝鮮半島と北九州には、周辺に居たマレー系民族の交易交流によって中国南部から鉄器農具と一緒に同時期にもたらされたと観るのが妥当と思われます。
関連し、マレー系稲作民族の移動について下図に示しました。

まとめますと、「稲作民族が朝鮮半島から来た」という説は、再検討が必要と思われます。
なお、こうした「稲作民族が朝鮮半島から来た」と言われるような誤解が生じている背景には、「弥生人は色白で高身長」という説とリンクしているためと思われます。
拙ブログで何度も指摘していることですが、朝鮮半島には、西側に低身長でやや色黒の稲作民族マレー系、東側に色白で高身長の畑作民族ツングース系の2種が居ました。
「弥生時代遺跡跡の人骨にこれら2種の民族が確認されています」が、これら2種が何時から日本に住むようになったのかは明らかになっておりません。
そして、これら2種のうち、高身長のツングース系民族の骨だけが弥生人として注目され、低身長のマレー系は先住民族(縄文人)と混同されてきた感じがします。
しかし、「色白で高身長」というのは畑作民族のツングース系のことで稲作民族のマレー系のことではありません。

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