弥生稲作と戦いはリンクしているのか

弥生稲作と戦いはリンクしているのか(西日本の古代)
前回、東京新聞(2019.7.27、4面)に、「人はなぜ戦うのか」、「農耕が生んだ支配」という見出しで記事が出ていたことを紹介し、その記事の「稲作民族が朝鮮半島から渡ってきた」という認識は再検討が必要であることを指摘しました。
また、その記事では「水稲のノウハウや技術とともに戦いの思考も携えてきた」ことも紹介されていますが、弥生時代、富の差が生じ、日本列島でその奪い合いが始まった、という認識も、一般に知られているところです。
関連し、今回は、「弥生稲作と戦いはリンクしているのか」について愚考します。
まず、戦いがあったのは、弥生時代が発展し富の差異が出てきた弥生時代晩期の2000年前(1世紀)頃以降のことです。稲作が始まったのが3000年前ですので、これは稲作が導入されて1000年後のことで、稲作技術をもった人々が戦いの思考を持っていたのか定かではありません。
さらに、戦いが激しかったのは、倭国の大乱などのあった3世紀の北九州と周辺だけの話です。例えば、Wikipediaによれば、「(弥生時代に)北関東と東北には戦争があった可能性を示す考古学事実はほとんどない」とあります。すなわち、稲作が富の差異を作りましたが、その結果、どこでも戦いが起きていたわけではありません。
では、北九州で激しい戦いのが何故起きたのかについて検討しますと、次の様なことが考えられます。
戦いが激しかった北九州における倭国の大乱の時代(3世紀)ですが、朝鮮半島や大陸においても戦争は日常茶飯時でした。
また、朝鮮半島南部では、西側に稲作民族のマレー系、東側に畑作系民族のツングース系(中国系とモンゴル系の混血)が居て、対立していました。そして、その後、稲作系のマレー系は百済、畑作系のツングース系は新羅という国にまとまりました。この結果、集落の対立から国家(民族)の対立に移行しました。
一方、北部九州ですが、その緊張した朝鮮半島の影響を強く受けた印象があります。まず、水田稲作の結果、人口が増え、集落からいくつもの小国家が誕生しました。しかし、全体をまとめるリーダーが居なかったため争いが絶えない状況だったと思われます。このため、祈祷に通じカリスマ性のあった卑弥呼を立て、まとまったのが倭国(邪馬台国)の状況だったと思われます。
言い換えますと、弥生時代後期の北九州の倭国の大乱は、稲作=富の差=奪い合いという図式だけでなく、戦いの多かった朝鮮半島に近かった北九州独特の問題として捕らえる必要もあると思われます。
次に、北関東以北で弥生時代に何故争いが無かったのかについて愚考しますと、次のことが考えられます。
北関東以北は、アイヌ系多かった地域です。彼らは、自然との調和を大切にする和の思想(縄文思想)をベースにもっていました。おそらく、彼らは、1世紀頃、水田稲作を受け入れましたが、戦いは受け入れなかったと思われます。
因みに、アイヌ系とその他の民族のY染色体ハプログループの割合を下表に示しました。Nonakaら(2007)のデータですが、関西に比較し関東では明らかにアイヌ系が多数派です。

アイヌ系を平和的先住民族、マレー系等その他を大陸系の好戦的移住民族として分けますと、先住民族:大陸系移住民族(割合)は、関東では1:1、関西では1:3 になります。すなわち、関東では平和的先住民族アイヌ系の割合が高く、古代においては、この差はもっと大きかったと思われます。
関連し、朝鮮半島と西日本のマレー系民族とツングース系民族の分布を上トップ図に示しました。
まとめますと、「弥生稲作と戦いはリンクしている」という認識もすべての地域であったことではなく、一般化できない認識と思われます。

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