倭人の素顔が見つかった

倭人の素顔が見つかった(日本人のルーツ)
中国の周王朝時代(3000年前)、水田稲作が中国南部(江南地方)からマレー系民族によって日本(北九州)にもたらされたことを検討してきました。
その江南地方ですが、2600年前頃、越国が興りました。Wikipediaによれば次のとおりです。
越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前306年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。(引用終了)
そして、そのWikipediaには越人像(浙江省博物館蔵)が紹介されていますが、その像は上トップ図のとおりです。
その越国は、上記Wikipediaによると「後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる」とあります。すなわち、長江流域の稲作民族は漢民族とは別の、上トップ図のような越人であり、そのような人たちが日本に来て水田稲作を始めたことになります。
前置きが長くなりましたが、今回は、上記Wikipediaにあります越人像(浙江省博物館蔵)が、マレー系民族であったこと、かつ、魏志倭人伝に記述されている倭人であったことについて愚考します。
まず、その越人像は、上トップ図のとおりですが、一方、私が見たマダガスカルのマレー系の人々は下図のとおりです。

これらの図を比較しますと、上トップ図の越人像はたいへんマダガスカルのマレー系の人々に似ています。主な類似点を指摘しますと、やや小柄、やや丸顔、小さな口元、つぶらな瞳、男子は髭が薄いなどです。
また、この越人像で興味深いのは、刺青が目立つように彫られていることです。魏志倭人伝で、倭人は刺青があり南方の海南島人に似ていると表現されているのは、この男子のようであったためと思われます。
まとめますと、魏志倭人伝にあります倭人の様子は、越人に似ており、かつ、越人はマレー系の民族であったと推察されます。
このような稲作民族マレー系の人々の顔から想像しますと、邪馬台国の場所は同じく水田稲作が始まった北九州にあったと思われます。
そして、後に日本の中心となる大和国(奈良)ですが、北方系の天孫降臨神話からも想像されますように南方よりも北方系(ツングース系)の民族の影響が強く、稲作民族とは別系統であったと思われます。
また、余談ですが、上記越人像は正座をしており、日本人の正座のルーツもマレー系にあるのかもしれません。
そして、さらに余談ですが、越国には、古代4大美人の西施(せいし)が知られております。傾国の美女と言われ、呉越が対立していた時代、宿敵呉国を滅ぼすために越国から呉国に贈られた絶世の美女です。Wikipediaにあります西施像は下図のとおりです。

この図を見ますと、目尻がやや吊り上がっております。この特性は中国系ですので、おそらく、西施は純潔の越人(マレー系)でなく、中国系とマレー系の混血美人と思われます。
例えば、私がマダガスカルで見た中国系とマレー系混血の華僑の少女(同図右下顔写真参照)ですが、彼女は、なんとなく西施に似た雰囲気があります(笑)。

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