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稲作民族のルーツと水田作の普及

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マレー系民族の世界移住


稲作民族のルーツと水田作の普及(ブログの概要)

前回、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)による日本人のルーツについて検討し、アイヌ系が35%、マレー系が30%、ツングース系(韓国系:中国系とモンゴル系混血)が30%、その他5%であることを指摘しました。

今回は、カテゴリ「南方系と日本人」および「稲作と日本人」を基に「稲作民族のルーツと水田作の普及」について「記事まとめ」をします。

まず、それぞれの民族の生業ですが、アイヌ系は自然採集、マレー系は稲作、ツングース系は畑作です。すなわち、これらの民族のなかで、稲作民族と言われるのはマレー系だけです。

一方、「日本型稲品種のルーツ」ですが、最も古いタイプがインドネシア(もとスンダランド)にあることから、そこがルーツと思われます。その担い手は、同じく、インドネシア辺りがルーツのマレー系民族と思われます。

彼らは、スンダランドが水没する2万年前頃から中国南部の江南地方に移住し、稲作の先駆者となりました。その後、彼らは、朝鮮半島と日本にも移住し、それぞれの国へ稲作を持ち込みました。

日本に移住した彼らは、同じマレー系民族として中国南部の稲作地帯と強い結びつきがありました。中国では3000年前以前から稲作文明(長江文明)が知られておりますが、その稲作が日本に持ち込まれ、3000年前頃から水田稲作が始まり、北九州、特に福岡で人口が増えました。

水路造成など水田稲作に必要な鉄製農具ですが、Wikipediaによれば2300年前頃導入とあります。しかし、2300年前は本格導入時期で、細々とではあるが水田稲作とほぼ同時期の3000年前から導入されていたと拙ブログでは観ています。

そして、1世紀には国家が作られ、それらのなかの「奴国」が中国に朝貢し金印を授与された話は有名です。

一方、北九州を除くその他の西日本ですが、民族的に稲作民族のマレー系は少なく、畑作系のツングースの影響が大きく、畑作が先行しました。このため、北九州を除く西日本の地域では、水田稲作が、北九州に比べ500年近く遅れ、2300年前頃定着しました。

北九州を除く西日本で、最初に発展したのは「吉備(岡山)」でした。吉備は、旧石器時代、縄文時代、弥生時代に西日本で最も遺跡数が多く、地域中心地でした。

また、吉備は、6000年前の縄文時代稲作(陸稲)が確認され、マレー系稲作民族が古くから居たと思われます。このため、北九州よりも大幅に遅れましたが、水田稲作がいち早く始まった地域と思われます。

なお、このマレー系民族が古くから居たという事実は、稲作民族が弥生時代に来たのではなく、古くからの大陸との交易交流の過程でマレー系が水田稲作を導入したと判断されます。

一方、後の中心地の奈良ですが、弥生時代遺跡数も古墳時代遺跡数も少なく、弥生時代の地域の中心地とは考えることはできません。関連し、福岡、岡山、奈良の弥生時代遺跡数と古墳時代遺跡数を下図に示しました。

奈良、岡山、福岡の弥生時代・古墳時代遺跡数

なお、日本に稲作を持ち込んだマレー系民族ですが、アフリカの「マダガスカルにも移住した民族」であることから海洋系民族としても知られております。彼らは、どちらかというと小柄であり、小型のボートの操縦に適していた可能性があります。

関連し、マレー系民族の世界移住について上トップ図に示しました。この図では、ペルーで縄文土器が発見されていること、ペルーのインカ人の容貌と言葉がマレー系の人々に似ていることから、仮説ですが、ペルーへの道も示しております。

なお、「水田稲作を導入した弥生人は高身長の新民族」という説が古くからあります。これは、弥生時代遺跡「山口県土井ケ浜遺跡」の高身長人骨等の例から、低身長の縄文人に代り新しい高身長の弥生人が朝鮮半島から渡ってきたという説です。彼らはツングース系民族と推察されますが、先に述べましたように、彼らは北方系畑作民族であり、稲作民族でありません。

また、高身長の彼らは7000年前頃から日本に渡ってきていることが、「富山県小竹貝塚」の人骨調査から分かっており、彼らが弥生時代から移住してきたわけではありません。

以上のことから、「水田稲作を導入した弥生人は高身長の新民族」という説は俗説であり、正しくはありません。

次回は「邪馬台国の場所」について「記事まとめ」をします。


 
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