弥生時代に東京は畑作の方が多かった
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レインボー

弥生時代に東京は畑作の方が多かった(関東・東北の古代)
前回、関東地方には弥生人が僅かしか来なかったことを古代遺跡数から推察しました。関連し今回は、前回紹介の「東京の遺跡」を参考に、東京の弥生時代は畑作の方が多かったことについて愚考します。
弥生時代は、生産性の高い水田稲作が急速に全国に普及し、その結果、古墳時代、そして歴史時代へと急速に日本社会は変わっていった、と教えられてきました。しかし、東京の古代遺跡数の関係からは、その様子はまったく見えません。
関連し、東京都の古代遺跡数を上図と下表に示しました。これら図表では、低地と台地上(高地)のデータを見やすくするため、斜面の利用は主として古墳時代だけであることから斜面のデータを省き、かつ、台地縁辺と沖積地を合わせて低地として扱いました。また、データを割合で示しました。

これらのデータから検討しますと次のようになります。
まず、縄文時代後期の遺跡ですが、台地上の割合が約60%、低地の割合が約40%でした。台地上では山の幸を、低地では海の幸を採集し、物々交換しながら別々に生活していたと思われます。
同様なことは、弥生時代そして古墳時代まで続きました。弥生時代は水田稲作導入の時期ですので水田を作りやすい低地の方に人々が移動したと予想されますが、そうではない結果となりました。このことは、弥生時代に鉄製農具だけを受け入れ、台地では畑作を行っていた可能性があります。
そして、水田稲作適地である低地の遺跡割合が高くなるのは歴史時代(飛鳥時代)からです。歴史時代は米を祖税とする租庸調税が始まった時期で、その時期は大化の改新(646年)以降と言われます。
すなわち、関東地方が大和朝廷に組み込まれて租税(米)を納めるようになったのは大化の改新以降で、この時期は東京で低地遺跡が増える時期と一致します。
しかし、東京の遺跡では歴史時代に入っても台地の方の遺跡が多かったことから推察しますと、実際に租税(米)を納めるようになったのは飛鳥時代からと言うよりも律令体制が確立する奈良時代頃からと観るのが妥当と思われます。
すなわち、東京の台地に居た住民は、奈良時代になると班田収授法に従い、大和朝廷に租税(米)を納めるために、いやいやながら低地に移住しなくてはならなくなったと推察されます。
まとめますと、奈良時代以前は水田作よりも畑作が多かったが、その時代以降は低地の水田作の方が多くなっていったのが真相と思われます。
なお、租庸調税の「祖」は稲籾のことで、Wikipediaによれば次のとおりです。
租は、田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3%~10%に当たった。原則として9月中旬から11月30日までに国へ納入され、災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが国衙の主要財源とされた。しかし、歳入としては極めて不安定であったため、律令施行よりまもなく、これを種籾として百姓に貸し付けた(出挙)利子を主要財源とするようになった。一部は舂米(臼で搗いて脱穀した米)として、1月から8月30日までの間に、京へ運上された(年料舂米)。
また、戸ごとに五分以上の減収があった場合には租が全免される規定(賦役令水旱虫霜条)があり、そこまでの被害が無い場合でも「半輸」と呼ばれる比例免の措置が取られるケースがあったが、当時の農業技術では、全免・比例免を避けることは困難であった。そこで、1つの令制国内において定められた租の総額に対して7割の租収入を確保することを目標として定めた「不三得七法」と呼ばれる規定が導入されたが、これを達成することも困難であったため、大同元年(806年)に旧例として原則化されるまでしばしば数字の変更が行われた。(引用終了)
次回は、「台地になぜ水田稲作が普及しなかったのか」について愚考します。

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