台地になぜ水田稲作が普及しなかったのか
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レインボー

台地になぜ水田稲作が普及しなかったのか(関東・東北の古代)
前回まで、東京の弥生遺跡数を基に、台地から低地への人口移動は弥生時代に認められなかったこと、台地の人達は畑作を行っていた可能性について検討しましたが、台地では水田稲作はできないのか疑問が出てきます。現在の風景から見ると台地には棚田があり、昔から棚田があった印象があります。
関連し、今回は、台地は水田稲作に適していなかったことについて検討します。
水田稲作の優位性については「水田稲作で人口がなぜ増えるのか」で検討しましたが、森から流れてくる自然栄養(肥料)を使うことができるので水田は毎年無肥料で使える長所があります。そこで、台地でも水田稲作ができれば望ましくなります。事実、棚田などを見る限り、台地でも水田稲作は可能です。
しかし、当時の技術では台地は水田稲作に適していないことが分かっています。その理由として、当時の技術では、台地は漏水が多く、水田に適していません。この漏水問題は、代掻き(しろかき)という水と泥をかき混ぜ、水漏れしないようにする作業で解決しますが、当時は、こうした技術はありませんでした。
当時の稲栽培法は、除草後、掘り棒で穴を空け、そこに播種し覆土し、発芽したら水路から水を入れるという乾田直播栽培で、稲作は漏水の少ない低地だけが適地でした。厳密には、1日当たり減水深(漏水)が5cm以下のところになりますが、当時の水田稲作はこのような場所、すなわち低地という漏水の少ない所で行われていました。
では漏水が多いと何故問題なのかですが、次のとおりです。
まず、水が抜けますので大量に水が必要になります。また、漏水のため水温が温まらないので稲の育ちは劣ります。さらには、肥料(栄養)が水と共に流れ落ちてしまい生育が劣ります。このほか、畑雑草が増え、とても良い稲の生育は期待できません。
この漏水問題は、前述のとおり、代掻きで解決しますが、これが行われるようになったのは、牛耕が行われるようになった平安時代後期以降と思われます。そして、山間地の棚田で稲作が行われるようになったのは江戸時代以降となります。
当然のことですが、代掻きをすれば田植えができるようになります。したがって、代掻き稲作=田植え稲作となりますので、田植え稲作も平安時代後期以降となります。詳しくは拙ブログ過去記事「田植えの始まりは平安時代後期」を参考に願います。
なお、古代水田の雑草を調査した「那須浩郎(2014)」 は、その場所には水田雑草よりも畑雑草が多かったこと、すなわち、畑地のようであったことを明らかにしています。これは、古代水田の多くは、低地であっても漏水が多く畑地のような状態であったことを示します。
関連し、古代の土地利用の様子を上トップに示しました。
また、下の写真はマダガスカルの棚田です。マダガスカルの棚田は5世紀頃から始まったと言われます。これら棚田を守り機能させるためには、日本の棚田と同じく、水漏れを防ぐために代掻きと畦塗が重要であることは言うまでもありません。



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