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古墳時代の関東の中心地愚考

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関東の古墳時代の各県遺跡数


古墳時代の関東の中心地愚考(関東・東北の古代)

北九州や畿内よりも関東に古墳数が多いことを前回検討しました。しかし、日本の古墳時代については西日本中心の解析が多く、関東の古墳時代については検討が少ない印象を受けます。このためか、関東の古代については、その中心地さえも不明です。

おそらく、大王が居たところが中心地と思われますが、今回は、関東の古墳時代の大王墓と中心地について愚考します。

まず、文化庁の参考資料: 平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数によれば、関東各県の古代遺跡数は下表の通りです。

関東各県の古代遺跡数

そして、古墳時代遺跡数を上トップ図に示しました。

これらのデータから、古墳時代遺跡数が最も多いのは群馬県になります。そして、「関東の大王は太田天神山古墳に眠っている」で紹介しましたが、関東最大、全長210mの太田天神山古墳が群馬県にあります。さらに、碑文入り鉄剣が見つかったのはその近くの埼玉古墳群です。

これらのことから想像しますと、関東の中心地の一つは群馬~埼玉の平野部辺り一帯と思われます。事実、群馬~埼玉は平野部でつながっており、両県の古墳数は合わせると関東最大で、この地帯が古墳時代関東の最大の中心地だったと思われます。その意味で、関東最大の天神山古墳は象徴的存在と思われます。

次に、2位の茨城県ですが、関東で2番目に大きい全長186mの舟塚山古墳(石岡市)があります。また、その近くの南東の行方(なめかた)市の三昧塚(さんまいづじか)古墳からは八頭馬形飾金銅冠が出土しており、この冠を被った地域の王が居た可能性があります。

隣に栃木県がありますが、両県を遮るものはなく平坦な大地でつながっていることから想像しますと、茨城と栃木を合わせた古墳時代遺跡は、群馬・埼玉に続いて多く、茨城・栃木は関東第二の中心地だったと思われます。

以上、関東の中部平原地帯は東西の2地域に分けられますが、この地域を分けたのは利根川や鬼怒川の大河川だったと思われます。

次に、古墳数3位の千葉県があります。大古墳は認められませんが、芝山古墳など特徴ある埴輪出土の古墳があり、独自の勢力があったことを感じさせます。

もともと、近くの東京湾一帯は、旧石器時代~縄文時代に貝塚が全国一多いところで、長期に渡って人類の足跡のある地域です。そして、弥生時代になると、稲作に有利な平野部の多い千葉県北部に中心地が移動したと思われます。

しかし、千葉県の北側は霞ケ浦や鬼怒川の大河で分断されており、北側との交流は少なく、独自の発展をした可能性があります。このため地域としての広さに欠け、群馬や茨城のような大王は生まれなかったと思われます。

以上のことから想像しますと、関東の古墳時代は三つの勢力と中心地があったと思われます。すなわち 第一が群馬から埼玉にかけての平坦部と、第二が茨城から栃木にかけての地帯、第三が千葉県など東京湾岸地帯です。そして、これらの地域を分けたのは大河川だったと思われます。

まとめますと、弥生時代に入り、関東の平野部では1世紀頃から水田稲作が発展し、4世紀頃から古墳時代に入り、上記3地域に大王が出現しました。

関連し、これらの関係を下図に示しました。

関東の古墳時代の中心地

なお、この古墳時代の西日本と関東の関係ですが、次のようであったと思われます。

日本の先進地は倭の五王の居た北九州地域でした。そこで、関東のそれぞれ大王は北九州の倭国と関係を持ちました。その遺物が、埼玉で発見された碑文入り鉄剣、茨城で発見された八頭馬形飾金銅冠と思われます。また、後には装飾古墳が入ってきました。

なお、畿内政権ですが、確認できるのは継体王(在位:507-531年)からです。それ以前の記紀に記されている王(天皇)については王宮跡不明、王陵不明、在位期間不明、記録文字(文書)不明で、居たとも居ないとも言えない状況です。詳しくは「空白の時代があったのか」を参照願います。

そして、畿内政権が関東に影響を持つようになったのは、壬申の乱(672年)に勝利し、西日本全体を支配する大王(天武天皇 在位:673-686年)が出現した7世紀末からと思われます。

次回は、これら3地域と言葉の関係について愚考します。


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