大河が古代の関東を分けた
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レインボー

大河が古代の関東を分けた(関東・東北の古代)
前回、古墳時代の関東は、群馬グループ、茨城グループ、東京湾グループの3地域に分かれ、それぞれの中心地があったこと、そして、地域を分けたのは大河川であったと推察しました。
関連し、今回は、関東の言葉の違いから、3地域のルーツについて愚考します。
まず、私ことで恐縮ですが、私は福島県中通り(郡山)出身です。茨城県(つくば市)に住んだ時、言葉が同じと言われたことがあります。因みに「おめ、茨城出身か」なんて言われました(笑)。一方、埼玉(鴻巣市)には8年間住みましたが、茨城と言葉が違うことを感じました。
そこで関東方言について調べますと、Wikipediaでは次のとおりです。
関東地方の方言は西関東方言と東関東方言に大別するのが通例である。文法において両者は「ベー」を用いるなど共通点は多いが、音韻、アクセントは大きく異なる。西関東方言は東京式アクセントで東海東山方言や共通語に近いのに対して、東関東方言は無アクセントで中舌母音があるなど、東北方言(南奥羽方言)と連続している。「関東方言」を定義したのは方言学者の東条操[1]だが、都竹通年雄[2]や奥村三雄[3]の区画では関東方言にあたるものはなく、東関東方言は東北方言(南奥羽方言)の中に入れられている。中心都市である東京の方言で関東方言を代表させることがあるが、実際には東京方言は西日本方言的な要素を強く持つなど、周囲の伝統的な関東方言と比較すると特殊な方言である(言語島)[4]。
現代の関東地方の若年層では、旧来の関東方言に代わり首都圏方言(共通語をベースにした新方言)が圧倒的優勢である。関東方言、特に首都圏方言と共通語を混同する例が一部で見られるが、関東方言と共通語はいずれも異なる言語学的概念である。 (引用終了)
このWikipediaの記事をまとめますと、関東方言は大きく3つのグループに分けられ、それは西関東方言(上州弁)、東関東方言(茨城弁)、東京方言(江戸弁?)となる感じです。
前回の記事「関東の古代は3地域に分けられる」、そして、今回の「関東の方言は3地域に分けられる」をまとめますと、この関東方言地域分布は古墳時代の地域分類と一致します。すなわち、関東の地域性は、古墳時代、あるいは、それ以前からあったことになります。
そして、大河は人の移動妨げることは昔から知られていることですが、それらの地域性を作ったのは関東を流れる古代の大河、すなわち、利根川、渡良瀬川、鬼怒川だったと思われます。
関連し、関東方言分布と河川の関係を上トップ図に示しました。
次に、古墳時代の関東の大王について検討しますと、前回指摘のように関東全体をまとめるような大王は出現しませんでした。その理由には次のことが考えられます。
まず、古墳時代末期の7世紀に、北九州の倭国が白村江の戦い(663年)に唐に敗れて滅び、大和朝廷に取り込まれました。これは、関東と関係のあった倭国が滅び、北九州を含む西日本全体が統一されるという画期的事件でした。
そして、その直後、巨大化した王権の支配をめぐり日本を東西に分けた大戦争(壬申の乱 672)が起こりましたが、その戦いを制した天武天皇(在位:673-686年)が登場します。天武天皇は地方の豪族の支援のもとに即位し、事実上、強大であり、初めて天皇と名乗ります。
この結果、関東の各大王は、倭国という後ろ盾を失い、かつ強大な大和政権を前にして、しだいに大和政権に取り込まれていったのが真相と思われます。すなわち、関東をまとめる大王出現前に、関東は大和朝廷に取り込まれていったことになります。これらの関係を下図に示しました。
なお、白村江の戦いですが、詳しくは、拙ブログ記事「白村江の戦いの真実、日本書紀は創作」を参照願います。次回は、東北の弥生時代について愚考します。


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