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東北における水田稲作普及は冷涼気候のため遅れた

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東北、北陸、関東の古代人口推移


東北における水田稲作普及は冷涼気候のため遅れた(関東・東北の古代)

すでに紹介してきましたように、水田稲作は生産性が高く、水田稲作が普及すると人口が増大することが知られております。しかし、東北においては、水田稲作が何時始まり、どのように発展にしていったのかは、ほとんど報告がありません。

関連し、今回は東北の水田稲作開始時期について愚考します。

方法は、「関東の稲作開始時期」と同じで、人口が停滞から増大する時期を稲作開始期としました。

解析のために用いた古代の東北の人口はKoyama (1978)のデータによりますが、比較に関東と北陸を加え、下表に示しました。

また、この表を基に3地域の年代と人口増加の関係を上トップに示しました。

東北、北陸、関東の古代人口

東北では、2000年前頃から人口が緩やかに増大します。そして、1500年前頃から、増大が大きくなります。

北陸も、人口は2000年前頃から人口が緩やかに増大します。しかし、増大は1700年前頃から急激になり、東北よりも少なかった人口は1700年前には逆転し東北よりも多くなります。

水田稲作で何故人口が増えるのか」について既に紹介しましたが、東北と北陸のこうした人口増大は、水田稲作が普及したためと予想されます。そこで、この人口がより急速に増加に転じる年を稲作開始期としますと、次のとおりです。

まず、上トップ図で人口が増加に転じる時期を拡大しますと下図のとおりです。

東北、北陸、関東の稲作開始時期

関東の人口増大開始時期は2050年前で、この頃が稲作開始期と思われます。関東の最古の稲作遺跡は神奈川県の「中里遺跡」ですが、これは2100年前の遺跡ですので、この予想はほぼ当たっていると思われます。

同じ方法で予想しますと、東北の人口増大時期は1850年前です。稲作はその頃に開始されたと思われますが、この時期は西日本では弥生時代晩期、邪馬台国時代前の時期に当たります。

東北の最初の水田跡としては、青森県の「砂沢遺跡」(2500年前)と「垂柳遺跡」(2200年前)が知られております。2500年前の「砂沢遺跡」では水田を作った後に放棄された様子があり、このため、次の2200年前の「垂柳遺跡」が東北最初の水田跡と言われておりますが、「垂柳遺跡」の水田も長期間使われた様子はありません。

これらのことから想像しますと、東北では、水田稲作情報は西日本より少し遅れて2500年前頃から伝わっていたが、実際に開始されたのは650年遅れの1850年頃というのが真相と思われます。そして、稲作開始後も人口上昇は緩慢でしたので、水田稲作普及は緩慢に進んだと読み取れます。

一方、北陸は1950年前頃から人口が急激に増大します。このため、東北より人口が少なかった北陸は、1700年前後に人口が逆転します。

当時の稲作は、何度も述べていますが、乾田直播栽培で、乾田(畑地)に播種し、発芽したところで水を入れる方式です。この方式は漏水問題のある中山間地や、初期生育の遅れる冷涼気候に適していません。このため、東北地方、特に北部(青森、秋田、岩手)は気性条件から稲作適地とは言えません。詳しくは「台地になぜ水田稲作が普及しなかったのか」を参照願います。

まとめますと、この冷涼気候という問題から、東北で水田稲作が開始されたのは、1850年前頃、関西と比較し500年以上の遅れ、関東と比較し200年以上の遅れがあったのが真相と思われます。

弥生時代は、稲作民族が来て稲作が急速に全国に普及していった時代と言われてきました。しかし、畑作先行の問題、冷涼気候の問題、さらには乾田直播という栽培法の問題がありました。このため、水田稲作情報は早くから東北に伝えられていましたが、実際は、緩やかに西日本から東日本、そして東北に普及していったのが真相と思われます。

なお、北方稲作には極早生品種が必要ですが、極早生種は自然突然変異でも出現することは知られておりますので、当時から極早生種はあったと理解されます。詳しくは、拙ブログ「垂柳遺跡の早生稲はどこから来たか」を参照願います。

なお、当然のことですが、東北の南部と北部では気候が違いますので、今回の情報は、東北全体を平均して観た場合の値であることは言うまでもありません。関連し、次回は、東北各県の水田稲作普及状況について検討します。



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