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出雲古代文化のルーツはツングース系

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レインボー
日本の古代3世紀の状況


出雲古代文化のルーツはツングース系(西日本の古代)

前回、出雲は、吉備や大和よりも人口増加が少し遅れ、水田稲作導入が少し遅れたことを指摘しました。一方、出雲は、銅剣など多量の青銅器が出土し、かつ、独特な「四隅突出型墳丘墓」が建造され、独特の古代王国があったことが多くの研究者に指摘されています。

関連し、今回は、その出雲の独自性のルーツについて愚考します。

結論から言いますと、出雲は朝鮮半島のツングース系の影響の濃い地域であったことかと思います。

例えば、「祟る出雲(八百万)の神々 神話から青銅器・鉄器の王国へ」によれば次の通りです。

学校の日本史の教科書は、ほぼ7世紀から始まっている。これは、『日本書紀の記述は6世紀以前は全く信憑性が無い、ましてや神話なんて、、』というのが史学会の常識だったからであろう。今山陰地方の考古学が進展したことにより、『出雲王国』が実在していたことが確証できた。古事記には、葦原中国(出雲王国)はわが子が支配する国だとして、神々を次々に降臨させるが、帰伏させる事が出来ず、ついに天照大御神は天鳥船神と建御雷(たけみかずち)神を大国主神のもとへ遣わした。そしてこの国は『天照大御神のご子孫に差し上げましょう』と言わせたのである(天孫降臨より)。8世紀の大和朝廷は、出雲王国の実在を知っていたからこそ、出雲を神話にしてしまい、日本の歴史を抹殺しなければ政権の正当性と正統性を証明出来なかったのだ。すなわち大和朝廷が出来る以前に日本には別の王国、出雲王国が存在していたことを、神話が語っているのである。この王国が倭国の中心として、日本海沿岸はもちろん遠く瀬戸内海や中国,朝鮮半島と盛んに交易が行われていた。

日本で文字による記録が残されるのは奈良時代の古事記(712年稗田阿礼が暗誦していた帝記を太安万侶が編纂した)と日本書紀(720年天武天皇の命を受け、舎人親王らによって編纂された日本最古の国史)である。しかし古事記の内容は、大化改新(クーデター)を起こした天智天皇と藤原鎌足の正当性を主張し、蘇我氏と須佐之男命を悪者扱いにしているが、その内容からは古代の人々の考え方や習慣が読み取れる。古事記の神話の1/3は出雲に係わった神話で占められている。 出雲の神様は、大国主命(別名大黒様)、恵比須様などの現世利益の神様と、須佐之男命のように祟りと暴れん坊の神様がいる。何故出雲の田舎(?)に日本一大きな出雲大社が出来たのであろうか?

出雲風土記は713年五月に中央政府から出された命令により製作に着手させ、733年に完成した。出雲の由来が『八雲立つ出雲』とか、国引き『新羅の岬が余っているから綱をかけて引いて縫い合わせた』とか記載されている。

島根半島と朝鮮半島は300Kmの距離である。冬を除けば波穏やかな日本海であり、大陸との往来や西は九州、東は東北ともつながっていた。このように出雲は僻地ではなく、大陸や半島との文化の玄関口であった。
(引用終了)

また、ブログ仲間の最近の記事「国引き神話と見返りの鹿(島根県松江市 八雲立つ風土記の丘展示学習館/岡田山古墳群)」では次の通りです。

出雲国風土記には、記紀には見えない独特の神話として「国引き神話」があり、意宇の地名の由来が語られている。登場するのは「八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノノミコト)」で、一説には大国主命はこの神の孫だそうであるが、この神が「国来、国来(くにこ、くにこ)」と新羅や隠岐、越の国などから余った土地を手繰り寄せた後、持っていた御杖を衝き立てて「意恵(オヱ)」と仰ったことから「意宇(オウ)」と名付けられた、とされる。「オヱ」は感動詞だそうだが、「終えた」という意味であろうか。平野のほぼ中央、国府跡の北東に御杖を衝き立てた址とされる「意宇の杜」の伝承地が今でもあるらしい。(引用終了)

また、「出雲地方は大和と違う古墳をつくった」によれば次の通りです。

弥生時代中期以降、出雲地方を含む山陰は後の邪馬台国や大和政権と同族であった。また、大和、北九州、瀬戸内海の各地域のような在地勢力が無く抗争を起こす事がなかった。銅鐸、銅剣、銅矛を埋納し、自由な文化を花開かせ、古墳時代になっても前方後円墳なんか作る必要が無かった。

玉造にある「花仙山」では良質なめのうが採れ、その付近ではめのう細工の職人達が集落を作り、暮らしていたと言います(参考)。
高句麗・新羅には方墳が多い、出雲の方墳のルーツのひとつは新羅か!出雲神話の国引きに、新羅から土地を引っ張って来ている(参考)。
(引用終了)


引用が長くなりましたが、これらの記事をまとめますと、出雲の由来は新羅(朝鮮半島)であったことが出雲風土記に書いてあることかと思います。

拙ブログでは、朝鮮半島には2系統があり、1つは東側の北方畑作系のツングース、もう1つは西側の南方稲作系のマレー系が居たこと、そして、ツングースは縄文時代に日本へ来て日本海を北上したことを指摘してきました。詳しくは、「山口県の土井ケ浜遺跡出土の弥生人骨は北方系民族」を参照願います。

また、「四隅突出型墳丘墓」ですが、この墳丘墓の原型は方墳であり、上記引用のとおり、方墳は朝鮮半島にルーツがあることが指摘されています。また、多量の青銅器ですが、これも朝鮮半島由来であることが指摘されています。

そして、出雲の独自性のルーツについてまとめますと、次のようだと思われます。

出雲には朝鮮半島から渡ってきたツングース系民族が多く居て、縄文時代には先住民族のアイヌ系と混合混血していました。このため、出雲は、ツングース民族の居た朝鮮半島(特に東側)と繋がりが強く、その影響を受け易い場所だったと思われます。

また、ツングース系は畑作民族であり、そのためか水田稲作の始まりは他の地域より少し遅れた感じがします。それでも、水田稲作を導入し余剰農産物が生まれますと、朝鮮半島の仲間と交流するなかで、王が生まれ、青銅器の製造、古墳の製造など、他の地域にはない独自性が作られていったと思われます。

また、大和(畿内)との関係ですが、ツングース系の影響多少の違いはありますが、同じ民族です。国譲り神話に見られますように、出雲は小国でもあり平和を優先し、無用な戦いはせず、6世紀以降の畿内政権の日本統一事業に参加していったと思われます。

一方、邪馬台国のあった北九州地域との関係ですが、そこはマレー系が多く言葉が違います。詳しくは「古代日本と韓国にマレー系民族が多数住んで居た」を参照願います。

このことから、北九州地域は、同じマレー系の朝鮮半島西部の稲作地帯(後の百済)と関係が深く、ツングース系の出雲とは関係が弱かったと思われます。

関連し、3世紀頃の様子を上トップ図に示しました。


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レインボー
Posted byレインボー

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  • 2020/01/25 (Sat) 23:22
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aoi
出雲族が日本統一していた

記紀のいかがわしさに比べて各地に残されている風土記は正確な史実が記されているようですね。
この書によれば、大国主神が支配していたのは出雲一国だけではなく、もっと広範な国土であったことを示唆しています。国譲りとして譲ったのは、出雲以外のほかの国々だったというのです。
逆に譲らなかったのがお膝元の出雲だったというのです。
神武天皇が東征するまで日本をまとめていたのは出雲族だったのでしょう、新潟のほうに痕跡があるようです。
奈良の三輪大社の祭神は大国主なのも出雲族がその土地にいたからです、大和族に奈良を譲った証拠でしょう。
国譲りをしてくれた出雲に礼を尽くして大社を作ったのですが、その力を封じ込めるために出雲大社は下がり参道にして大国主を封じ込めたのでは?
出てくるとこわいからw。

  • 2020/01/27 (Mon) 21:30
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レインボー
レインボー
Re: aoi 様、出雲族が日本統一していた

aoi 様
いつも貴重なコメント、ありがとうございます。

出雲族が日本統一していた、ですが、出雲族をツングース系とすれば、倭国を除きそのように観ることができると思われます。
基本的に、畿内政権の基礎はツングース系と思われます。
草々

> 記紀のいかがわしさに比べて各地に残されている風土記は正確な史実が記されているようですね。
> この書によれば、大国主神が支配していたのは出雲一国だけではなく、もっと広範な国土であったことを示唆しています。国譲りとして譲ったのは、出雲以外のほかの国々だったというのです。
> 逆に譲らなかったのがお膝元の出雲だったというのです。
> 神武天皇が東征するまで日本をまとめていたのは出雲族だったのでしょう、新潟のほうに痕跡があるようです。
> 奈良の三輪大社の祭神は大国主なのも出雲族がその土地にいたからです、大和族に奈良を譲った証拠でしょう。
> 国譲りをしてくれた出雲に礼を尽くして大社を作ったのですが、その力を封じ込めるために出雲大社は下がり参道にして大国主を封じ込めたのでは?
> 出てくるとこわいからw。

  • 2020/01/27 (Mon) 22:27
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