新リーダー継体王と旧勢力との関係愚行

新リーダー継体王と旧勢力との関係愚行(西日本の古代)
前回、畿内地域の新リーダーとなった継体王(在位:507-531年)の勢力範囲について検討しました。関連し、今回は、新リーダーと旧勢力との関係について愚行します。
なお、継体王を継体天皇と呼称している場合がありますが、天皇という呼称は後の天武天皇からのこと、天武天皇以前の王は支配地域が小さく天皇と呼称するには問題もあることから、拙ブログでは、そのときの状態を優先し継体王と呼称しています。
さて、前回紹介の「継体天皇と即位の謎」によれば、継体王は福井出身で、その支配地域は、愛知、岐阜、滋賀、大阪当たりだったようです。そして、王宮ですが、大和(奈良)に置かず、大阪に置きました。大和に入らなかったのは、反対勢力があったなど諸説ありますが、記紀に記されていることは曖昧で何とも言えません。
また、継体王は、畿内政権では初めて百済と外交関係を持ち、百済から五経博士を受け入れ文書部を作り、最初に文字を導入した政権でした。また、地方支配の制度として「国造」(後の国司)の制度を作ったことが知られております。
以上の支配地域や外交関係から推察しますと、大阪は、支配地域に近いだけでなく、港があり、百済との外交の場としても執行し易い場所だったと思われます。詳しくは「継体王、小さな王宮、初代天皇か」を参照願います。
以上の状況から新リーダー継体王と旧来勢力の関係について愚行しますと次のような感じかと思われます。
1. 大和(奈良)との関係
大和は、地理的に日本の中心と思われる。このため、日本を支配しようとした王が巨大王墓をいくつも作った歴史がある。しかし、巨大古墳建造の結果、民衆は離反し、現在は強い王も居ない。そのうち何もせずとも継体王の支配下に入る地域と思われる。
2. 吉備との関係
吉備は西の中心地であり、ここの協力無しには中国地域の支配はできない。昔と違い、現在は、我が国の方が大きくなっている。「国造」(地域の王)の役職で日本統一に協力してもらおう。また出雲攻略にも協力してもらおう。
3. 出雲との関係
出雲は最近大きくなってきた地域で、新羅の後ろ盾もあるようだ。しかし、我が方は、新羅よりも強い百済と外交関係があり、かつ国力も明らかに大きい。吉備と連合して攻めると脅かし、出雲と同じく「国造」の役職で日本統一に協力してもらおう。
4. 倭国との関係
倭国は古くからある国、「国造」の役職で日本統一に協力してもらえれば良いが、戦いもやむをえまい。そして、実際に知られているのが、倭国の磐井王と継体王の戦い「磐井の乱」(527年)です。詳しくは「倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係」を参照願います。
まとめますと、継体王は、東海、北陸、近畿にまたがる地域を支配した最初の大王と思われます。その地域の人口は、当時先進国だった倭国と同等以上でした。また、朝鮮半島の強国だった百済と外交関係を持ち、百済を参考に「国造」など地方管理制度も作りました。こうした力を背景に、大和、吉備、出雲を支配し、日本統一の先駆けとなったと思われます。
そして、倭国とは527年に戦い、決着は付かず、日本統一は、倭国が「白村江の戦い」(663年)で唐軍に敗れ滅びた後に実現したことになります。詳しくは「白村江の戦いの真実、日本書紀は創作」を参照願います。
関連し、継体王時代のそれぞれの国の人口と対立関係を上トップ図に示しました。

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