海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた
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レインボー

海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた(日本人のルーツ)
前回、最近のY染色体ハプログループ情報について紹介しました。そして、日本に渡来してきたマレー系には、マレー系A(日本に多)とマレー系B(朝鮮半島に多)の2種あることを紹介しました。
また、拙ブログでは、マレー系は海洋系かつ稲作民族であることを紹介してきました。詳しくは「マレー系民族の日本文化への大いなる影響」を参照願います。
関連し、今回は、「海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた」について愚行します。
なお、マレー系Aですが、正式にはO1b2a1a1(別名O1b2-47Z)で、日本にだけ多いマレー系の系統です。
一方、マレー系Bですが、正式には、マレー系Aを除くO1b2グループになります。このグループは朝鮮半島に多い結果になっています。(前回資料参照)
これらのハプログループと関連し、「Y染色体で探る日本人の起源 3.日本人の構成」は、データが大きく大変参考になります。そのデータの一部を下表に示しました。

以上の情報を整理しますと、拙ブログのこれまでの検討から、マレー系2種は、縄文時代に来た海洋系(実はマレー系A)と、弥生時代に来た稲作系(実はマレー系B)であったことが予想されます。そして、マレー系の日本移住については次のようなストーリイが考えられます。
まず、マレー系の祖先のO1bグループですが、スンダランド(現インドネシア)で発生したと思われます。詳しくは「マレー系民族の日本への道」を参照願います。
そして、O1b1グループは東南アジア方面に広がりました。
一方、O1b2グループは中国の海岸を北上し江南地方で稲作を始めました。そして、その中の1系統(マレー系A)だけが先に日本に向かい広がったと思われます。
その理由は簡単です。O1b2グループにいくつかの系統ありますが、マレー系Aはその中の1系統だけですので、先に来た可能性は大です。
日本に来た時期は、1.4万年前の鹿児島の稲プラントオパール遺跡から観て1.4万年前以上と思われます。この稲は陸稲ですので、水田をベースにした稲作系とは違います。このため、彼らは、日本先住民族のアイヌ系と混血し、縄文人となりました。詳しくは「稲作民族が江南地方から大挙移住してきたのか」lを参照願います。
また、彼らの主食のタロイモ(サトイモ)ですが、ブログ仲間の最新記事「日本神話の源流(10)~タロイモは語る」によりますと、5000年前頃には伝わっていたようです。タロイモは東南アジアがルーツでマレー系民族の主食であること、そして導入された時期から想像しますと、これもマレー系Aによって日本へ持ち込まれた可能性があります。
マレー系民族は海洋系民族であることから想像しますと、おそらく、その航海能力を生かし、5000年前の三内丸山遺跡時代の海洋交易は彼らが担った可能性が高く、そして、後の海人の祖先となった可能性も高いと思われます。詳しくは「マレー系民族の優れた航海術」および「鳥浜貝塚のヒョウタンと船愚考」を参照願います。
関連し、上の表で、マレー系Aは、縄文時代に栄えた関東と東北で多い傾向があります。
次いで、朝鮮半島南部と北九州に水田稲作民族のマレー系Bが3000年前に到着しました。それ以前、彼らは、江南地方で水田稲作を行い発展し、後に中国南部に越国を建設しました。彼らは、さらに一部は北上し、朝鮮半島南部と北九州に水田稲作技術を普及させたと思われます。
しかし、北九州に来た彼らは日本人の10%で、人数も少なく、また水田稲作をするための鉄器も少なく普及は北九州だけに留まりした。この結果、日本全体への水田稲作普及は700年遅れたのが真相と思われます。詳しくは「水田稲作は鉄器導入が早かった北九州だけが先行した」を参照願います。
以上の結果、水田稲作民族のマレー系Bは、朝鮮半島で多い結果となりましたが、日本では、先に来ていた海洋系民族のマレー系Aが20%と多く居た関係から、後に来た水田稲作系マレー系Bは10%で相対的に少なくなったものと思われます。
関連し、マレー系の日本への移住について上トップ図に示しました。

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