日本の古代国家には2系統があった

日本の古代国家には2系統があった(記事まとめ)
拙ブログでは、北九州には1世紀には奴国に始まるマレー系民族の倭国があったこと、一方、北九州以外の西日本には、6世紀にアイヌ系が主体と思われる継体王による畿内政権が生まれたことを検討してきました。
また、「古代の朝鮮半島には2種の民族が居た」ことについても紹介してきました。
関連し、今回は、記事まとめとして、朝鮮半島と同じように「日本の古代国家には2系統があった」について愚行します。なお、それらの2系統は稲作のマレー系の系統とアイヌ系を主体とした系統です。
まず、国家の定義ですが、行政組織と外交があることと思われます。
この意味で、日本の最初の国家は北九州にあった奴国と思われます。ついで北九州に邪馬台国が登場します。邪馬台国は奴国を含めた連合国家ですが、人口が増え、より本格的な政権ができたと思われます。
続いて倭の五王の時代が現れます。都は大宰府と推定されていますが、この都は中国の都を模した条里制であり、本格的な国家だったと思われます。しかも、同胞のマレー系の百済と連合し北の高句麗と戦い、中国南朝から「新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国の諸軍事を司る鎮東大将軍」 とう称号を得て、朝鮮半島南部から北九州を支配したことが分かっています。
そこで、倭国はなぜ朝鮮半島に行き高句麗と戦ったのか、何故、日本統一の事業をしなかったのかという疑問が残りますが、それは次のように理解されます。
それは倭国の民族の特徴と思われます。すなわち、倭国は稲作マレー系民族の国です。おそらくマレー語が話されていたことが北九州の方言から推察されます。詳しくは「マレー系民族の日本文化への大いなる影響」を参照願います。
また、一方、朝鮮半島には同胞の百済があり、そちらの結びつきが強かったと思われます。因みに、百済は稲作民族国家であり、マレー系民族の朝鮮半島の中心地でした。
関連し、百済(くだら)の読み方です。百済を「Kudara」と一般に読めないと言われます。そこで拙ブログで明らかにしたことですが、Kudaraはマレー語で同胞の意味があります。おそらく倭国の人たちもマレー系民族であり、同じ仲間の百済の人々をKudara(同胞)と呼んでいたため、百済をKudaraと呼ぶようになったと思われます。詳しくは「古代国家「くだら」の国名由来」を参照願います。
一方、行政組織と外交という観点から検討しますと、畿内政権では継体王(在位:507-531年)が実在した最初の王朝と観るのが妥当と思われます。継体王については、百済との外交文書など物的証拠がしっかりと確認できています。
関連し、この時代、北九州以外の西日本の地域は、言葉は現日本語に近いアイヌ系言語だったと想像されます。このため、それらの地域はマレー語と異なる文化地帯であり、マレー系倭国は興味を持たなかった地域だったと思われます。
大和政権は継体王(在位:507-531年)から始まりましたが、北九州の倭国とは民族の違いから対立を続け、倭国が百済を救うために唐と戦い白村江の戦い(663年)で敗れた時に滅ぼしてしまいました。詳しくは「白村江の戦いの真実、日本書紀は創作」を参照願います。
そして、倭国の存在は後の日本書紀と古事記(記紀)では無視され、大和政権だけがもともとあったというふうに歴史が改竄(かいざん)されてしまったのが真相と思われます。
以上のことから、邪馬台国はマレー系民族が北九州に作った国であり、一方、大和政権は、天孫降臨伝説から推定されますようにツングース系影響の濃い政権であります。そして、朝鮮半島のマレー系百済とツングース系新羅のように、両者は戦い、倭国は敗れ大和政権が勝ち残ったことになります。
関連し、倭国全盛時代(倭の武王時代、5世紀)の様子を上トップ図に、倭国が滅びたとき(7世紀後半)の様子を下図に示しました。


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