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稲と鉄は別々に導入された

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鉄の生産と稲普及


稲と鉄は別々に導入された(稲と鉄)

前回、海人族のルーツについて検討し、その正体は日本人の20%を占める縄文時代から居る海洋系マレー(マレー系A)であったことを指摘しました。

一方、マレー系には日本に水田稲作をもたらした稲作系マレー(マレー系B)も居たことも指摘してきました。水田稲作民族は中国江南地方から3000年前頃から来ていたことが明らかになっていますが、水田稲作には水路造成など鉄器が不可欠であることも指摘してきました。

関連し、今回は、「稲と鉄は別々に導入された」について愚行します。

まず、関連書籍に「稲作渡来民」(池橋 宏 2008 下の写真参照)があります。それには、朝鮮半島南部および九州北部の稲作は中国南部の越人によってもたらされたことが詳しく指摘されています。

稲作渡来民(書籍)

この資料と拙ブログのこれまでの指摘から、稲作民族の越人はマレー系民族で、故郷のインドネシア(もとスンダランド)を北上し、江南地方に水田稲作を広めたと思われます。そして、さらに北上し、山東半島辺りから朝鮮半島と日本に水田稲作技術を持ち込んだと思われます。

次に、日本での普及ですが、水田稲作は朝鮮半島南部とほぼ同じ時期の3000年前に北九州で始まりましたが、周囲にはすぐには広がりませんでした。

例えば、北九州の次に弥生時代遺跡の多い吉備(岡山県)ですが、水田稲作遺跡は2500年前頃から認められています。しかし、人口の増大が認められるは2200年前からです。詳しくは「古代王国の人口と稲作開始時期」を参照願います。

このすぐには普及しなかった理由として、稲作民族のマレー系が少なかったことも考えられますが、北九州以外は鉄器の導入が遅れたことが一番の要因として指摘されます。

前回紹介の「海の古代史」(布施克彦 2018)によると、朝鮮半島南東部の慶州(後の新羅の都)で紀元前3世紀頃の製鉄遺跡が見つかっていて、この地域に一大製鉄産業があったことを明らかにしています。そして、後に新羅はこの製鉄技術をベースに発展したとあります。

以上のことから推察しますと、3000年前の北九州の鉄器は、朝鮮半島南部で生産されたものでなく、中国本土、おそらく南部の越国等で生産されたものがマレー系民族によって直接導入されたものと思われます。このため、量はごく僅か、そして、品質も不良であったことが推察されます。

一方、北九州以外の日本の水田稲作が2200年前に始まるということは、朝鮮半島南部生産の鉄器が導入され、普及した結果と思われます。

鉄器生産地の新羅はツングース系民族の国です。また、拙ブログで、この時代ツングース系民族が畑作系民族として西日本や北陸、関東・東北に縄文時代から居たことを指摘してきました。したがって、鉄器は、ツングース系民族によって、その出身地の朝鮮半島南東部(後の新羅)から日本に導入された結果と思われます。

そして、ツングース系民族は、この鉄器を使い、畑作だけでなく、水田稲作も始め、弥生時代の中心的民族として活躍したものと思われます。

言い換えますと、当時の日本は、アイヌ系、マレー系、ツングース系の混合混血民族地帯でしたが、農耕に重要な鉄器を導入したツングース系民族を中心に、稲作民族のマレー系、多数派のアイヌ系も協力して水田稲作が行われ、弥生時代が形成されていったものと思われます。

関連し、鉄器生産と稲作、ツングース系民族の関係について、上トップに示しました。


 
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