北九州の初期水田開発は石器で行われていた
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レインボー

北九州の初期水田開発は石器で行われていた(稲と鉄)
前回、朝鮮半島で生産された鉄器の導入について検討しました。そして、3000年前に北九州で始まる稲作に、僅かですが南方由来の鉄が使われたと愚考しました。
一方、弥生時代の鉄について、「弥生時代ってどんな時代だったのか?」(藤尾慎一郎編 2017)に最近の情報が詳述されています。(上の写真参照)
その記事では、縄文時代の鉄器発見、すなわち、北九州の水田遺跡(福岡県の板付遺跡、佐賀県の菜畑遺跡、福岡県曲田遺跡)で鉄器の発見があったことを紹介しています。
しかし、結論として、水田稲作の始まる3000年前からの約600年は石器の段階(石器時代)としています。
これは、拙ブログの結論と同じですが、関連し、今回はさらに愚考します。
まず、弥生時代遺跡の多かった東海~西日本3県の古代人口推定値を下表に示しました。この古代人口推定方法については「古代王国の人口と稲作開始時期」を参照願います。

まず、上の表を基に、3県の人口増加曲線を求めますと、下図のとおりです。

稲作が先行した福岡の人口増加ですが、稲作が始まったと見られる3000年前から増加が認められますが、これはたいへん緩やかな増加です。
そして、鉄器導入を2300年として、それ以降の状況を見ますと、明らかに、急激な人口増大が1800年前頃(AD200年)に全ての3県で認められます。
この状況から判断しますと、鉄器導入以前は、鉄器は少量あったが不足しており、上記書籍のとおり、石器で水田を開発していた時代と思われます。このため、水路や畔の造成は容易でなく、目に見えて水田稲作が有利な状況ではなかったと判断されます。
そして、2300年前頃になり鉄器が導入されますと、水田稲作の開発が進み、新時代と言われる弥生時代が始まったと思われます。
以上のことから、3000年前に水田稲作は始まりましたが、その効果は農耕用の鉄製の鍬(すき)などが無かったため小さく、人口が飛躍的に増大し、新しい時代に入るのは鉄器導入から500年後の2世紀頃と思われます。その意味で、弥生時代という新時代も実際には2世紀頃に始まったと観ることができます。
以上のことを総合しますと、水田稲作開始(3000年前)~鉄器導入(2300年前)の時期は、弥生時代助走期と観るのがふさわしいと思われます。

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