fc2ブログ

なぜ10世紀に古代集落が台地から消えたのか

0 Comments
レインボー
マダガスカルの棚田と農家


なぜ10世紀に古代集落が台地から消えたのか(稲と鉄)

前回、低地水田稲作と高地畑作の比較を行い、水田稲作の人口増大効果が畑作の3倍程度あったこと、そして、その高地(中山間地)には、弥生時代を過ぎた古墳時代に水田稲作は広がったことを指摘しました。

一方、日本の歴史には、10世紀頃、台地にあった古代集落の消滅が指摘されています。10世紀というのは、移植栽培(田植え)が始まった頃と拙ブログで指摘している時代です。

関連し、今回は、移植技術が、高地性集落消滅と関係していることについて愚考します。

まず、高地性集落の消滅ですが、ブログ仲間記事「平安時代の鎌倉」 によれば次のとおりです。


【失われた古代集落】

日本は九州から西日本、中部地方にかけて10世紀を境に古代集落が消えるという現象が起きている。これはヤマト時代から奈良時代、平安初期にかけて繁栄した地域が9世紀から10世紀にかけてきれいさっぱりと無くなっているのだ。これは考古学的に証明されており、自然災害など、いくつかの複合的な理由はあるが中心的な理由は社会体制の変化、社会秩序の決定的崩壊にあるとされている。

10世紀代において集落遺跡が台地上からほぼ消えてしまう傾向は、房総半島の広い地域において共通の現象である。・・・・・(略)

関東において10世紀とは平将門の時代である。将門の乱は、集落の変遷から見ても、社会背景として在地において確実に準備されていたと見るべきなのかもしれない。(房総半島の古代集落遺跡に見る人口動態 萩原恭一)

『10世紀の古代集落の終焉の主たる要因は、在地領主層であった郡司層の没落によって、支配のくびきを離れた住民の自立しようとする欲望、有力農民の台頭などによる農民呼び込みであったといわれる。地域内での移住を繰り返していたと考えられている。(秦野市史)』

鎌倉を含め鎌倉の周辺ではこのように、古代社会の秩序が崩れ、社会体制の変化、社会秩序の決定的崩壊に直面していた。沖積平野の開発が進み、相模国でも台地から寒川・平塚などの平野部に中心が移って行った。鎌倉の平野部の発展もこうした背景と関連付けて考えられるのです。
(引用終了)


上の記事をまとめますと、「古代社会の秩序が崩れ、社会体制の変化、社会秩序の決定的崩壊に直面していた。」、が重要と思われます。すなわち、社会が変化し自由になった人たちが増えてきたことと思われます。

当時の稲作関係記録によれば、水路を作り水田を開発しても期待したほどは収量が上がらなかった場所が多かったことが伺えます。この原因は、当時の稲作は乾田直播栽培だったので、多くの場所は漏水が多く畑のようだったことが最大原因と思われます。

そこで、この問題を解決したのが移植技術と思われます。移植技術では、水と土をこねるという作業(代掻き)を移植前にしますので、漏水が少なくなり、水が温まりやすく、かつ養分流脱も少なくなり、収量が上がることが分かっております。

この生産性の高い移植技術は、労力がかかる問題がありますが、実践すれば必ず収量が上がりますので魅力的です。このため、上の引用記事のとおり、古代社会の秩序が崩れ特に自由な武士団の多くなった関東では、労力が余り、水田開発への新たな情熱が生まれたのではないかと思われます。詳しくは「田植えの始まりは平安時代後期か」を参照願います。

以上のことから、移植技術は、新しい時代の自由になった人たちに取り入れられ、その効果が認められると、日本全域に広がっていったと思われます。関連し、北東北の寒冷地でも稲作が広がったのはこの時期と思われます。

そして、上記引用記事ですが、台地にあった古代集落とは、おそらく畑作農民集落と思われます。沖積地で移植技術を伴った水田が開発されると、そこは確実に収量が期待できますので、生産性の低い畑作を捨て、低地水田に集まっていったのは自然の流れと思われます。

関連し、それまで台地の人々が低地に移住しなかった実例は「弥生時代に東京は畑作の方が多かった」を参照願います。

なお、上と下の写真は記事と関係ありませんが、マダガスカルの水田風景です。このような棚田が形成された時期は明確でありませんが、1200年前頃と拙ブログでは想像しております。

棚田の問題は漏水ですが、代掻きし漏水を少なくする移植技術が、棚田利用を可能にしたと思われます。

マダガスカルの棚田

また、田植え技術と関連し、下のマンガ絵でくつろいでいただければ幸いです。

田植えは猫の手も借りたい(マンガ絵)


日本史ランキング
レインボー
Posted byレインボー

Comments 0

There are no comments yet.