前方後円墳のルーツ愚考
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レインボー

前方後円墳のルーツ愚考(古墳と日本人)
先に、出雲王のルーツは朝鮮半島由来のツングース系であったことを紹介しました。そして、そのシンボルとして「四隅突出型墳丘墓」が作られたことを指摘しました。詳しくは「出雲古代文化のルーツはツングース系」 を参照願います。
一般に、王の葬式は個人では決められないと言われます。その意味で、出雲王の墳丘墓は、その出雲国の習慣や文化そのものだったと思われます。
例えば、ツングース系の偉大な王に高句麗の「広開土王」が知られておりますが、その王墓「高句麗将軍塚」 は方墳です。ツングース系の新羅には円墳も多数知られておりますが、リーダーは格式高い高句麗将軍塚のような方墳を選んだのではないかと思われます。
そして、有名な出雲の「四隅突出型墳丘墓」もその延長でより格式高い王墓と思われます。関連し、方墳は北陸、関東、東北でも多く認められますが、ツングース系が日本に移住してきたとき日本海を北上し東北広がったことから、それらの地域にツングース系のリーダーの居たことが推察されます。
ツングース系は、鉄器や畑作農耕などの文化が先行していた朝鮮半島由来出身者ですので、アイヌ系が多い地域でもリーダー(地域首長)になるのは困難では無かったと思われます。
一方、日本には、王墓に関し、前方後円墳という独特の墳丘墓があります。そのルーツは諸説がありますが、ツングースの墳墓と同じように習慣や文化として捉えると分かりやすいかと思われます。
前置きが長くなりましたが、関連し、今回は、前方後円墳のルーツについて愚考します。
Wikipediaによれば、前方後円墳のルーツは次のとおりです。
最もよく知られているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものであるという学説である。この説においては従来より存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)で祭祀などが行われ、その後この部分が墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として大型化し円墳と一体化したと考えられる。(引用終了)
この説では、「円形墳丘墓の周濠の陸橋部分(通路部分)」が方形に拡大したものと言うことになります(上図参照)。しかし、王の墳墓が、このように勝手に変えられるものなのか疑問が残ります。また、この説で行くと、前方後円墳の方墳部分が何故大きくなったのか、何故、陸橋部分の方墳部が、もともとは陸橋部分だったのに、水で囲まれているのかは説明できていません。
そこで、別の観点から考察しますと、その時代背景が重要と思われます。すなわち、前方後円墳が現れた3世紀は北九州では邪馬台国の時代、その他の地域では地域の王が出現し、古墳時代に入っていった時代でした。邪馬台国では大乱がありましたが、この大乱は、おそらくは西日本全域に知られていて、対立や戦乱の無い平和な社会が求められていた時代と思われます。
因みに、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)によれば、現在の日本人はアイヌ系35%、マレー系が30%、朝鮮半島由来のツングース系が25%、その他が10%という状況です。古墳時代以降、大きな民族移住はなかったことからしますと、古墳時代も同じ状況であったと思われます。
これらのことから想像しますと、民族の対立は一般に知られていることですが、この対立が激しくなった時代が水田稲作で豊かになってきた弥生時代後期~古墳時代初期の頃と思われます。
この中で、ツングース系は前回紹介しましたように方墳を選んでいました。また、方墳が発展し、二つの方墳が合体した前方後方墳という新型も現れました。これは、前方後円墳より早いか、ほぼ同時期に建造されています。そして、そのルーツを方墳としますと、これもツングース系がルーツと思われます。
一方、円墳ですが、古墳の90%は円墳と言われます。この意味で多くの地域リーダーが円墳に葬られていますが、マレー系と思われる邪馬台国の卑弥呼の墓が円墳だったこと、マレー系の多かった百済国の大王「武寧王」の「武寧王陵」 は円墳だった等から想像しますと、マレー系は円墳を好んだ可能性があります。
また、ブログ仲間の「北東北(青森)の古墳」によれば、その古墳は小円墳がほとんどです。北東北はアイヌ系が多かったことから推察しますと、アイヌ系のリーダーも円墳を選んだ可能性があります。
これらのことから想像しますと、当時の民族対立を背景に、ツングース系の方墳とマレー系やアイヌ系の円墳を合体させた形は、民族和解の象徴的墳墓と観ることができます。そこで、方墳が二つ合体した前方後方墳をモデルに前方後円墳ができ、民族和解をもとめていた当時のリーダーは、前方後円墳を積極的に選んだのではないかと思われます。
また、墳墓の周濠はため池になりますが、ため池の水は水田や畑作の灌漑水として利用できます。古墳を作る人々の大半は農民ですので、その灌漑水を利用できるようになることは古墳建造に協力しやすくなります。
この灌漑水のアイデアは「水田と前方後円墳」に紹介されています。
また、「前方後円墳は円墳と方墳の合体」という説は「前方後円墳は、出雲と九州の統合の象徴!」に出ております。出雲はツングース系、九州はマレー系と観ますと、その合体は民族の統合という拙ブログの考えと同じになります。
まとめますと、前方後円墳は、3世紀に始まりますが、日本は、方墳のツングース系、円墳のマレー系とアイヌ系に分かれていた多民族国家でした。このため、地域のリーダーであった王は、これら民族の和合の象徴であり、かつ、灌漑水を貯蔵できる建造物として前方後円墳を建造したのではないかと思われます。
関連し、3世紀当時の墓様式のルーツを下図に示しました。


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