関東・東北における民族和合の象徴としての前方後円墳
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レインボー

関東・東北における民族和合の象徴としての前方後円墳(古墳と日本人)
前回、前方後円墳の形は、アイヌ系、マレー系、ツングース系が混合していた古代に、日本民族和合のシンボルとして現れたと指摘しました。今回は、この関係を東北の事例で検討します。
まず、関東、東北に前方後円墳が多数あることは知られておりますが、何故、多いのかについては解明されておりません。しかし、民族和合合の象徴の観点から考えると分かりやすいと思われます。
関東、東北にはアイヌ系が多く居て、いわゆる縄文時代の主要な担い手になりました。そこへ、朝鮮半島に居たツングース系民族が日本海側から移住してきました。
彼らは少しずつ移住してきましたので、アイヌ語を主とする日本語への影響は弱かったと推察されます。詳しくは「日本語のルーツはアイヌ語とマレー語」を参照願います。
一方、ツングース系民族は北方系畑作民族ですので、大豆など重要な畑作物を持ってきました。詳しくは.「弥生時代における畑作のルーツ愚考」を参照願います。また、関連し、弥生時代以降、農耕に必要な鉄製農具の持ち込み、水田開発にも主要な役割を担ったと思われます。
これらのことから、ツングース系民族は、農業でリーダーシップを発揮し、少数派でしたが、関東、東北地域でリーダーになっていった者も現れたと思われます。その中から王が生まれますと、彼らの中には、ツングース系の象徴であります方墳を選んだ者が居たと思われます。
因みに、福島の「大安場古墳群」は東北最大の方墳(前方後方墳)であり、ツングース系のリーダーが居たと思われます。
一方、ブログ仲間「滋味コフン」の「蝦夷の群集墓で垣間見た平安時代の情景(青森県おいらせ町 阿光坊古墳群(2)阿光坊遺跡/天神山遺跡)」によれば、それらの古墳は7世紀のものですが円墳です。北東北はアイヌ系が多かったことから推察しますと、アイヌ系のリーダーは円墳を選んだ可能性があります。
そこで、東北の前方後円墳ですが、宮城には、東北最大の前方後円墳「雷神山古墳」があり、隣の山形には、ほぼ同サイズの前方後円墳「南森古墳」があります。これらの前方後円墳は、まさに、方墳のツングース系と円墳のアイヌ系の合体であり、民族和合の象徴であったと思われます。
一方、関東ですが、DNA情報によれば、関東ではアイヌ系が約半分です。詳しくは「日本人のルーツは、アイヌ、マレー、ツングースの混血」を参照願います。
関東の古代ではアイヌ系がもっと多かったと予想されますが、関東でも民族和合の象徴としての前方後円墳が多く採用されたのではないかと思われます。因みに、群馬県にある関東最大の古墳「太田天神山古墳」は前方後円墳です。
まとめますと、円墳のアイヌ系、方墳のツングース系が混合していた関東、東北でも、前方後円墳は日本民族和合のシンボルとして人気があり、多数建造されたものと思われます。
関連し、福島の「大安場古墳群」、宮城の「雷神山古墳」、山形の「南森古墳」、群馬県の「太田天神山古墳」の場所とツングースの影響を上トップ図に示しました。

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