人口の少なかった奈良になぜ巨大古墳が建造されたのか
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レインボー

人口の少なかった奈良になぜ巨大古墳が建造されたのか(古墳と日本人)
前方後円墳のルーツについて3回に渡って検討してきました。一方、古墳時代前期(3~4世紀)に巨大古墳が、古代人口が少なかった大和地域(奈良県)に多数建造されています。
関連し、今回は、初期巨大古墳が大和地域になぜ多いのか愚考します。
まず、墳丘長が200m以上の巨大古墳ですが、Wikipedia(日本大規模古墳一覧)よれば37古墳が紹介されております。拙ブログでは、岡山県報告の1古墳(雨宮山古墳)をこれらに追加し38古墳としました(上表参照)。
これら38古墳の内訳は、奈良に20、大阪に13、岡山に3、京都に1、群馬に1になっており、奈良と大阪に合計33(87%)と集中しています。
また、時代別に見ると、3世紀に1、4世紀に13、5世紀に22、6世紀に2となっておりますので、4世紀と5世紀に合計35(92%)と集中しております。
そして、古墳時代前期の3~4世紀に限りますと、巨大古墳は14古墳あり、奈良県(大和)に12古墳、大阪に2古墳あります。大阪の2古墳は4世紀後期ですので、これらの時期と場所から想像しますと、大和に古墳時代初期(前期)から大王が居たと思われます。
次に、なぜ大王が大和に居て巨大古墳を建造したのか検討しますと、次のとおりです。
まず、巨大古墳建造のためには多大な労力がかかることが知られております。その意味で、弥生時代、水田稲作が普及し人口が増大し、この人たちを支配する王が巨大古墳建造を可能にしたと思われます。
そこで、奈良近隣、すなわち、東海、近畿、中国、四国の弥生時代と古墳時代の県別遺跡数を検討しますと、下表のとおりです。

この表から弥生時代と古墳時代の遺跡数の関係を下図に示しました。当然のことと思われますが、弥生時代遺跡数が多いと古墳時代遺跡数も多い関係が認められます。この図では、とりわけ、静岡、三重、岡山で突出して遺跡が多い傾向があり、人口も多かったことが推察されます。

一方、奈良ですが、弥生時代遺跡数は少なく、古墳時代遺跡数は中くらいで、弥生時代人口は少なく古墳時代人口は中くらいだったと予想されます。弥生時代は低地で水田が開発された時代ですので、内陸に属する奈良の弥生遺跡数は少なかったことは当然と思われます。詳しくは「畑作は生産性が低かったのか」 を参照願います。
これらのことから、巨大古墳が建造された奈良は人口が少ないので、よその地域から巨大古墳建造のために人が動員されたことになります。
そこで、どのような他地域から人を集め、奈良の地域に王墓と思われる巨大古墳を作ったのか検討しますと、次のようなことが考えられます。
まず、奈良は、人口の多かった静岡、三重、岡山の中心に位置します。かつ、当時の日本は、東海・近畿・中国・四国地域が一つの範囲と言われ、奈良はこれらの地域の中心に位置します。その意味で、古代の奈良は要衝の地で、ここを支配したものが、これらの地域の支配者だったことになります。
拙ブログでは、その大王の一人は神武天皇と推定しておりますが、詳しくは「神武天皇時代の日本の地理的中心地は奈良だった」 を参照願います。
また、当時の関東と九州ですが、後の大宝律令(701年)に関東は含まれていなかったことから、関東は奈良とは関係のない地域だったと思われます。また、九州は、北九州に倭国があり、かつ関東と同じように離れており、密接な関係は無かったように思われます。
まとめますと、4世紀の奈良の地域には、東海、近畿、中国、四国を支配していた王が居て、これらの地域から多数の人員が大王墓建設のために動員されたと推察されます。
関連し、次回は動員された人員について検討します。

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