巨大古墳建造は民衆を疲弊させた
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レインボー

巨大古墳建造は民衆を疲弊させた(古墳と日本人)
前回、古墳時代前期(4世紀)、墳丘長が200mを超える巨大古墳が奈良(大和)地域に多数建造されたこと、その建造のために、農閑期に約3000人(人口の1%)が動員されたことを試算しました。
関連し、200mを超える巨大古墳は全国に38古墳ありますが、奈良と大阪を除く地域には、岡山に3(造山古墳、作山古墳、雨宮山古墳)、群馬に1(太田天神山古墳)、京都に1(神明山古墳)あるだけです。それだけ、巨大古墳建造は簡単ではなかったことになります。
次に、古墳時代の奈良(大和)への道ですが、上図の感じかと思われます。すなわち、岡山等中国地域の人々は大阪を経て大和へ、静岡等東海地域の人々は三重を経て大和へ徒歩で向かったことになります。
時期は、農閑期の冬の時期が多かったと思われますが、古墳周辺から、これら古墳建造従事者の居住跡は発見されていないようですので、居住設備は無く、雨露を防ぐ簡易な掘立小屋を建造中の古墳の傍に自分で建てて過ごした感じかと思われます。そして奈良は内陸にあり冬は寒かったと思われます。
こうした状況から想像しますと、巨大古墳建造のために奈良の地域に動員された人々、動員を陰で支えた人びとの疲弊はたいへんなもので、民衆の疲弊不満は相当なものだったことが予想されます。
また、当時は、古墳作りは奈良だけでなく地方でも行われていましたので、それらを含めますと、一般民衆の疲弊はさらに大きかったことになります。これの結果、民衆の不満が高まり、奈良の地域での巨大古墳建造は進めにくくなった雰囲気も出てきたと思われます。
関連し、次の5世紀になりますと、大阪湾岸で世界最大の大仙陵古墳等さらに巨大な古墳が建造されるようになりました。
このため、奈良から大阪への王朝交代説があります。しかし、巨大古墳建造は、奈良の地域で数は少なくなりますがその後も続いており、支配者(大王)の変動については不明です。また、その時代の大王の政治についても不明であり、外国との関係も不明であり、王朝と呼べる性格があったのかも不明です。関連し、これらの謎については後程検討する予定です。
次回は、奈良の巨大古墳王権は、さらに支配地を広げ巨大化し、その結果、王宮や王墓陵を大阪に移動したことについて愚考します。

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