世界最大の大仙陵古墳建造の経過愚考
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レインボー

世界最大の大仙陵古墳建造の経過愚考(古墳と日本人)
奈良の地域では、4世紀、度重なる巨大古墳建造に民衆が疲弊したことを先に指摘しました。
そして、5世紀、世界最大規模の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)が、大阪の地に建造されました。民衆を疲弊させる巨大古墳建造を諦めず、さらに巨大な古墳がなぜ建造されたのでしょうか。
因みに、大仙陵古墳は「建造に15年間680万人の労力」 という大規模なもので、動員されたのべ人数は年当たり45万人以上(1日当たり1000人以上)と推定されています。
そして、先に検討しましたように、奈良と同じく大阪も人口は少なく、巨大古墳建造のためには他地域からの動員は不可欠でした。
今回は、そのような地域に大仙陵古墳が建造された経過を愚考します。
まず、5世紀の新大王は、前々回指摘のように、支配地域が、北九州倭国を除く西日本地域、すなわち、これまでの近畿、東海、中国に加え、四国、九州東岸まで広がり最大勢力となった可能性があります。このため、これらの地域の中心により近い大阪に王宮を移した可能性があります。
そして、新大王は、巨大化した新支配地を背景に奈良よりも大きい古墳、さらには先に建造された誉田御廟山古墳(応神天皇陵)を超える古墳を建造し、新支配者としての権威を示したくなった可能性があります。
因みに、最大古墳との関連で巨大古墳建造の流れを見ると上表のとおりです。
次に動員態勢ですが、最大勢力となった最強の大王が大阪に居て、全国から動員したと思われます。大阪は海に面しており、動員に船を利用できるので、古墳建造用の人員を瀬戸内方面から集めやすくなった可能性があります。
この海洋活動いついては、吉備国とリンクしていた瀬戸内の海族マレー系の協力があったことを前回紹介しました。ブログ「東国の古代史」が「海人族の末裔「海部氏」の遺跡」について最近紹介しておりますが、それは大仙陵古墳建造と同時代の遺跡であり、大仙陵古墳建造と関わりのある遺跡と思われます。
また、関連し、ブログ「3D京都」が「なぜ、前方後円墳でなければならなかったのか? 仁徳天皇陵をめぐる3D的考察 後編」で大仙陵古墳建造物の内部の様子を再現しています。その豪華さは圧倒的です。
この画像を見ると、その建造物は、特に古墳の外壁の石の使い方ですが、朝鮮半島のツングースの影響が強く感じられます。この方面は後に検討したいと思います。
一方、大仙陵古墳の主ですが、記紀では「仁徳天皇」となっていますが、本当の大王名は不明です。この謎についても後程検討します。
関連し、大阪の巨大古墳建造のために動員された人々の予想地域範囲を下図に示しました。


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