巨大古墳建造を続けた大王の末路愚考
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レインボー

巨大古墳建造を続けた大王の末路愚考(古墳と日本人)
日本の巨大古墳建造について検討してきました。そして、その巨大古墳建造を続けた大王の末路がどうなったのか、今回はクライマックスになります。
前回、民衆を疲弊させた巨大古墳建造が、3~4世紀には1地域(奈良)、5世紀には3地域(奈良、大阪、岡山)で行われたことを紹介しました。
また、奈良と大阪には居住者が少なかったことから、巨大古墳建造には他地域から多数動員され、民衆が疲弊したことも指摘しました。
関連し、これら巨大古墳建造を止めた大王と思われる継体王(在位:507-531年)の登場と、巨大古墳を建造し続けた大王(旧勢力)の末路について今回は愚考します。
まず、大阪の5世紀の巨大古墳従事者の数ですが、4世紀の奈良以上だったと思われます。
因みに、墳丘長が200m以上の巨大古墳数と合計墳丘長ですが、4世紀の奈良は11古墳、合計墳丘長が2532mです。一方、5世紀の大阪は10古墳で合計3005mです(前々回の資料参照)。
そして、5世紀の大阪は大仙陵古墳などのような超巨大なものも有り、かつ平地建造が多く、全体として4世紀の奈良地域よりかなり大規模な土木工事が行われたものと推察されます。
因みに、大仙陵古墳は「建造に15年間680万人の労力」という大規模なもので、動員された人数は年当たり45万人以上と推定されています。
以上のことから、これらの大王に支配されていた3~5世紀の民衆の疲弊はたいへんなものだったと予想されます。
そして6世紀になり、そこへ、北陸(福井県)出身のアイヌ系の新大王「継体王」(在位:507-531年)が現れました。継体王の誕生年は450年頃とされていますので、おそらく、5世紀後期のこれら巨大古墳作りに熱心な大王と疲弊した民衆の対立を見たと思われます。
継体王は、実在を確認できる天皇(大王)の始まりとして拙ブログで指摘している大王ですが、初めて外交を行った大王、初めて文書を導入した大王、国造制度など初めて地方管理の制度を作った大王として知られております。詳しくは「新リーダー継体王と旧勢力との関係愚行」を参照願います。
そして、継体王の陵墓は「今城塚古墳」と分かっています。場所は、奈良でもなく大阪湾岸でもなく、大阪府北側、滋賀・京都寄りのところ、その墳丘長は190mで、従来の大王墓より小さくなっています。詳しくは「継体王、小さな王宮、初代天皇か」を参照願います。
また、継体王は奈良・大阪の旧勢力とは別の「今城塚古墳」の近くに王宮を構えました。以上の経過から、おそらく、奈良・大阪の旧勢力とは対立していたと思われます。
そして、継体王治世の6世紀前期ですが、大阪、奈良、岡山から巨大古墳建造が突然として消えます。これらのことから、大阪、奈良、岡山の旧勢力は没落し、継体王単独の政権になっていった感じを受けます。おそらく、民衆は旧勢力から離反し、このため、継体王は労せずして権力を得た感じです。
そこで、それら巨大古墳建造を続けた旧勢力の末路ですが、次のようになったと思われます。
1. 奈良と大阪の旧勢力は民衆の支持を失い没落し、新勢力の継体王が支配者になった。
2. 旧勢力は継体王と対立していたこともあり、それらの王家の歴史は否定され不明になった。
3. 旧勢力没落200年後に日本書紀と古事記(記紀)が編纂され、継体王家(天皇家)の歴史を長く見せるため、旧勢力が残した巨大古墳は継体王家由来のものとして描かれた。このため、記紀の内容は史実を改竄したものとなった。
以上の関係から、巨大古墳については、その主の王名はすべて不明となってしまったというのが真相と思われます。
因みに前回紹介の世界最大の大仙陵古墳は仁徳天皇陵と指定されていますが、実際は誰の陵墓か分かっていません。詳しくは「世界遺産「仁徳天皇陵」で適切か」を参照願います。
関連し、現在指定されている巨大古墳の陵墓名のほとんどがでたらめということが指摘されています。詳しくは、「日本古代史つれづれブログ」の「古墳は語る(16)~古代天皇陵の謎」を参照願います。
まとめますと、日本の歴史では、空白の4世紀~5世紀という言葉がありますが、この原因は、この時代は大規模古墳建造の時代で、その支配者(大王)の治世を新勢力の継体王が徹底的に否定した結果と思われます。このことについては後にさらに検討します。
関連し、継体王時代(6世紀前期)の勢力図を上トップに示しました。
また、巨大古墳建造~日本書紀編纂の歴史を下表にまとめました。


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