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初期天皇と実在する巨大古墳との関係愚考

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大阪に建造された古墳(陵墓)の巨大化


初期天皇と実在する巨大古墳との関係愚考(古代史の問題)

奈良・大阪の巨大古墳は朝鮮半島をルーツにしたツングース系の王家が建造したものであったこと、その結果、民衆が疲弊し怒り、その王家はアイヌ系の継体天皇(在位:507-531年)によって滅ぼされ、さらには、それらの陵墓(古墳)や王墓名もわからなくなってしまったことを検討してきました。

関連し、今回は、古事記と日本書紀(記紀)の天皇名と実在する巨大古墳の関係について愚考します。

まず、実在する最初の奈良(大和)巨大古墳は3世紀中期の箸墓古墳です。これを最初の畿内の大王としますと記紀情報では神武天皇がこれに当たります。

次の4世紀は奈良の巨大古墳の時代です。

次の5世紀は大阪と奈良の巨大古墳時代です。

そして、6世紀になると、実在が確認できる継体天皇が現れます。

これらを一覧表にまとめますと、下表のとおりです。

記紀情報と古代古墳合体(推定)

この表から、歴代天皇と大規模古墳の関係が分かります。すなわち、大規模古墳のほとんどが王墓になると思われます。

因みに、3~5世紀の奈良・大阪における208m以上の巨大古墳は24基あります。これらを、建造時期、場所、墳長を短から長の順に並べ、歴代天皇との関係を事例的に当てはめますと、下表のとおりです。

歴代天皇と陵墓(当てはめ事例)

この表は歴史的事実関係とかなり一致します。すなわち、初代の神武天皇陵墓は3世紀建造の箸墓古墳になります。そして、応神天皇と仁徳天皇が実在とすると、彼らは5世紀前半の王に相当し、それらの王墓名と一致します。

関連し、5世紀前半の大阪の6基の古墳ですが、次第に巨大化していきます。この様子については上トップ図に示しました。この図では、大仙陵古墳建造まで、古墳は巨大化していきました。これらのことは、ツングース系王家の発展を示すもので、5世紀前半はツングース系王家の黄金時代であったと思われます。

しかし、最後の武烈天皇ですが、6世紀初頭の天皇であり、あてはまる巨大陵墓はありません。拙ブログでは、継体天皇と争い、滅ぼされたものと推察しています。日本書紀によれば、武烈天皇は18歳没となっており、その可能性は高くなります。

以上のことから、8世紀に編纂された記紀は、おそらく、こうした3~5世紀の巨大古墳をもとに、王名と王墓を創作、または、継体天皇がこれらの大王の末裔であるように歴史改竄したと思われます。

まとめますと、巨大古墳と天皇家の関係は、初代の神武天皇の陵墓を箸墓古墳としますと、その後の経過は、天皇の人数と巨大古墳(陵墓 208m以上)の数は一致します。

そして、これらの古墳は歴史的に偉大な産物であり、後の大和王家の歴史書(日本書紀)は、現王家はこれらの古墳を残した王家の末裔として記述し、歴史改竄したものと思われます。

なお、箸墓古墳(前方後円墳 全長276m)を卑弥呼の墓とする説がありますが、それはあり得ません。もともと魏志倭人伝には卑弥呼の墓は「径百余歩の墓に葬られた」と記述され、直径30m~50mの円墳または方墳と推定され、全長が200mを超えるような前方後円墳ではありません。

このため、当然のことですが、箸墓古墳(前方後円墳)を卑弥呼の墓とする説に対しては、多くの研究者が否定しています。



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