馬とツングース系王家
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レインボー

馬とツングース系王家(古代史の問題)
奈良・大阪に、3~5世紀、多数の人員を動員し巨大古墳を建造したのは、朝鮮半島から弥生時代に移住してきたツングース系民族出身の王家であったことを指摘してきました。
彼らが、日本の中心地だった奈良に王家を作ることができたのは、鉄製農具を持っていて、食料生産で有利で、かつ、近畿には先住民族が少なかったため移住し易かったことが指摘されます。
今回は、戦闘用に用いる乗用の馬を導入したのも彼らだったことについて愚考します。
まず、書籍「馬の考古学」(右島和夫監修 2019)(上写真参照)によれば、「箸墓古墳(桜井市箸中)で、4世紀初め「木製輪鎧(わあぶみ)」が出土しています。
これは馬に乗るための足受けの馬具で、その頃から乗用の馬は居たことになります。さらには、当時の用途を考えると、その馬具は戦闘用だった可能性が高くなります。
一般に、古代の戦闘では、騎馬軍団という言葉がありますが、歩兵に対し騎馬軍団が圧倒的に有利と言われます。
因みに、朝鮮半島北部では2200年前頃から馬飼育が知られ、3世紀には高句麗が騎馬軍団を持ち、朝鮮半島の支配地域を南部まで広げたと言われます。このため、朝鮮半島南部の国、当時「三韓」と呼ばれていましたが、同じく馬を飼育し、対抗したことが上記「馬の考古学」に紹介されています。
また、スペイン人のピサロですが、鉄砲だけでなく、騎馬軍団の力で、少数ながら広大なインカ帝国の支配した話は有名です。
そして、上記書籍では、5世紀に、河内(大阪)の山すそに牧場があり、馬を飼育していたこと、関連する馬具の生産工房があったこと等も紹介しています。
当然のことですが、馬飼育、馬具生産は日本では新しいことであり、関係の人々は朝鮮半島の者、すなわち、ツングース系の人々だったことになります。
また、関連し、馬を乗せ運ぶことができる準構造船が登場したのも5世紀頃だったことが紹介されています。
以上のことは、ツングース系王家は、4世紀後半には朝鮮半島の国々と同じように、騎馬軍団を持ち、かつ準構造船を持ち、それらの装備を使い、5世紀には東海~西日本の大半を支配するような大王家に発展したと思われます。
世界最大と言われる大仙陵古墳を初め多数の巨大古墳が5世紀前半に大阪に建造されましたが、騎馬軍団と準構造船はその原動力となったと思われます。そのときが、まさに、ツングース系王家の黄金時代だったと思われます。
関連し、5世紀前半に、内陸部の奈良(大和)から海岸部の大阪(河内)に王家の中心地が移動したのは、そうした馬と準構造船を使い、広い支配地を管理するために便利な場所、かつ、王家(大和)の場所に近い場所を選んだためだったとも推察されます。
関連し、5世紀のツングース系の馬と支配の様子を下図に示しました。


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