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日本のツングース系王家と新羅との関係

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朝鮮半島と日本列島の5世紀の状況


日本のツングース系王家と新羅との関係(古代史の問題)

古墳時代の奈良・大阪に巨大古墳を多数建造したのは、弥生時代に渡来してきた朝鮮半島由来のツングース系民族の王家であったことを検討してきました。この歴史は、朝鮮半島由来の鉄と古墳の流れから考えますと、当然のことと思われます。

一方、日本に影響を及ぼした朝鮮半島のツングース系国家の代表は、鉄産地の慶州を中心に展開した新羅と判断されます。

関連し、今回は、同じルーツを持つ新羅と日本のツングース系王家の関係について愚考します。

まず、Wikipedia(新羅)によれば、4世紀以降の新羅の状況は次のとおりです。

周辺諸国と新羅[編集]

377年の前秦への遣使が高句麗と共同で(高句麗の影響下で)行われたことに見られるように、新羅の登場は高句麗と密接にかかわっている。初期の新羅は高句麗に対し相当程度従属的な地位にあった。382年に新羅は再度単独で前秦への遣使を行っているが、これもその地理的条件から見て、高句麗の承認があって初めて可能であったものと考えられる[3]。同時に新羅は建国初期から倭人の脅威にも晒されていた。『三国史記』「新羅本紀」は建国初期からたびたび倭人の侵入があり戦いを繰り返していたことを記録している[26]。また、西隣の百済、それに同調する伽耶諸国とも対立しており、それらに対して倭が軍事支援を行っていたとも伝えられる[15]。

4世紀末から5世紀にかけてこうした状況は『三国史記』や『日本書紀』のような歴史書、韓国で発見された中原高句麗碑などの発掘史料、そして何よりも広開土王碑など多くの史料によって良く示されている。広開土王碑は新羅を高句麗の属民として描くとともに[15]、この時期に朝鮮半島で行われた大きな戦いを記録している。それによれば高句麗は古より百済を「属民」としていたが391年に倭国が百済を「臣民」としたために出兵し倭軍を撃退した[27]。その戦いの中、400年頃には新羅の王都が倭軍に占領されたために高句麗が新羅に出兵し、倭軍を蹴散らし「任那加羅」まで追ったという[27]。この広開土王碑文の解釈を巡っては様々な議論があるが、『三国史記』や『日本書紀』にこれらと対応すると見られる記録として、新羅が高句麗と倭の両方に王子宝海(卜好)と美海(未斯欣)を送ったことが伝えられる[15][28]。また、中原高句麗碑は高句麗が新羅領内で人夫を徴発していたことを記録している[15][註釈 1]。同碑文は高句麗王と新羅寐錦(王)の関係を兄弟に擬制し、高句麗王を兄とした明確な上下関係を表現している[15]。

新羅が国力を増し、高句麗からの自立を図るようになるのは5世紀の半ば頃からである[30]。450年、新羅が高句麗の辺将を殺害するという事件が起きた[31]。これによって高句麗が新羅征討を計画したが、新羅が謝罪したため一旦問題は収まった[31]。しかし、454年には高句麗が新羅領に侵入して戦闘となり、翌年には高句麗と百済の戦いで百済へ援軍を送るなど新羅は次第に高句麗に対する自立姿勢を明確にしていった[30][31]。

(引用終了)

引用が長くなりましたが、新羅の歴史をまとめますと次のとおりです。

新羅建国は4世紀後半(377年)で、そのことが中国(前秦)への遣使や高句麗広開土王碑文から確認できます。そして、建国直後の5世紀前半は、北は高句麗、西は百済、南は北九州倭国から圧迫され、高句麗の属国となり自立できずにいたが、5世紀後半以降に自立発展していった。

一方、日本におけるツングース系王家の歴史ですが、まとめますと次のとおりです。

3世紀に奈良の纏向遺跡に始まり、4世紀には発展し多数の巨大古墳を建造した。さらに5世紀前半には頂点に達し、東海~西日本~九州の一部(大分当たり)を支配し、世界最大とも言われる大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を大阪に建造するに至った。

そして、5世紀以降の日本のツングース系王家と新羅との関係ですが、以上の両国の歴史から、次のように考えることができます。

まず、5世紀前半は、日本(近畿)のツングース系王家の黄金時代ですが、新羅の方は周囲の圧迫が強く、日本を支援する余裕はなく、このため関係は弱かったと判断されます。

そして、5世紀後半になると関係は逆転し、新羅は自立化し、領土を拡大し、一方、日本のツングース系王家は多数の巨大古墳建造が祟り、民衆は離反し、弱体化していった時代と判断されます。

一方、5世紀後半は、北九州倭国の全盛時代で、倭王「武」が、宋書によれば478年に、朝鮮半島南部を支配する「六国諸軍事 安東大将軍 倭王」の将軍号を得たとあります。このことから、北九州倭国は強く、奈良・大阪のツングース系王家は北九州倭国と戦う力は無かったと推察されます。

なお、倭王「武」について、詳しくは「倭王武は百済の武寧王になった」を参照願います。

ツングース系王家黄金時代の5世紀前半の応神天皇ですが、先に紹介しましたように、新羅と血縁関係があったことを記紀は示しております。しかし、あるのは同じツングース系という血縁関係だけで、支援関係とかの実質的な強い繋がりは無かったというのが真相と思われます。

以上のことから、日本のツングース系王家は、5世紀前半に黄金時代を迎えましたが、その歴史は新羅に残ることはありませんでした。

そして、日本のツングース系王家は、巨大古墳建造に対する民衆の怒にあい、継体天皇(在位:507-531年)に滅ぼされ、その関係の書物は焚書にあい、王陵の名前等も分からなくなってしまったと推察されます。

関連し、日本のツングース系王家は、外国との強い関係をもっていなかったため、滅亡が早まったとも判断されます。例えば、王家は、北陸出身のアイヌ系の継体天皇に滅ぼされましたが、継体天皇の力は強大ではなく、外国の支援があれば持ちこたえたかもしれません。

また、民衆を疲弊させた巨大古墳建造ですが、新羅から儒学者が来ていたら、民衆を疲弊させる巨大古墳建造はストップしていたかもしれません。

関連し、新羅、百済、北九州倭国、近畿ツングース王家の5世紀の様子を上トップ図に示しました。


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