山間地水田の漏水問題と平野部への展開(稲作と日本人)
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レインボー

日本の稲作ルーツ愚考、今回は5回目として、山間地水田の漏水問題と平野部への展開について愚考します。
一般に、縄文時代から弥生時代にかけ、住居が高台から低地に移動したころが知られております。これは、水田が高地から低地に移動したためと言われております。
なぜ水田が低地に移動したのでしょうか。それは、高台にあった中山間地の水田には漏水が多く稲作には適していなかったためと思われます。
漏水を防ぐためには、畦塗りや代かき作業が必要になります。しかし、これは、水田を耕起し土と水を混ぜ合わせるという作業ですので、労力のかかる問題があり、簡単ではありません。そして、当時、そのような知識はなかったと思われます。なお、水田の漏水は1日当たり3cm以下が理想とされています。
日本の古代の水田と関連し、那須浩郎(2014)は、稲のプラントオパールの出た水田の雑草生態を調べ、その場所には水田雑草が無かったこと、すなわち、畑地であったことを明らかにしています。これは、畦のあった水田が、実は、漏水のため畑地のような状況であったことの証拠と思われます。
同じように、日本初期の水田ついて、佐藤洋一郎が、「静岡大学近くの曲金北(まがりがねきた)遺跡」を例に同じようなことを述べています。
すなわち、古代の水田は、サイズが小さく、かつ、水田と畑作の中間の感じになっていたこと、陸稲と畑作物が混じって作られていたことを紹介しております。これは、日本の初期水田が漏水の多い畑地のような水田(乾田)だったことを示すものと思われます。
以上のことから、初期の水田は、畦は作られていたが、畦塗や代掻きはなく、漏水の多い乾田であったと推察されます。
一方、鉄器導入の結果、漏水の少ない低地でも水田開発ができるようになりました。このため、高台にあった漏水の多い水田は使う必要がなくなり、廃墟となっていったと思われます。このため、現在残っている棚田の多くは、江戸時代以降に作られたものばかりです。
なお、上と下の写真は、マダガスカルの棚田です。マダガスカルの棚田は歴史があり、漏水やエロージョンを防ぐための代掻きはしっかり行われております。

また、下の写真はマダガスカルにあった畑のような水田です。弥生時代初期の水田もこんな感じだったでしょうか。


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