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三角縁神獣鏡が近畿に多い理由愚考

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三角縁神獣鏡が近畿に多い理由愚考(古代史の問題)

初期の近畿の支配者は、朝鮮半島から鉄製農具を持ってきたツングース系民族が建設した王家であったことを検討してきました。

一方、その近畿の古墳から三角縁神獣鏡が多量に出土しています。この鏡は中国の鏡に似ていることから、これらは邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝からいただいた鏡と断定し、これを証拠に、邪馬台国は近畿(大和)にあったという説がありました。

しかし、この説は、鏡の出土した古墳は4世紀前半建造で、卑弥呼時代の3世紀前半でないこと、中国にこの種の鏡の出土例がないことから、完全に否定されています。

そこで、何故、4世紀の近畿にこれらの鏡多く出土しているのかという疑問が残ります。

関連し、今回は、三角縁神獣鏡が何故近畿に多いのか愚考します。

まず、これは国産品ということになりますが、ブログ「邪馬台国探訪」の「三角縁神獣鏡の由来」によれば次の通りです。

中国社会科学院考古研究所前所長の王仲殊氏は、「三角縁神獣鏡は魏王朝から賜与されたものではなく、当時日本に渡来した呉の工人によって、日本で製作されたものである。」との説を唱えています。

その説によると、三角縁神獣鏡のデザインは如何にも呉的であり、鏡に使われている銅の成分も呉のものだから、呉人が倭国内で作った鏡だろうと云うわけです。

(引用終了)

上記引用記事によれば、三角縁神獣鏡は、中国の3世紀、南部にあった呉の国の人たちが日本に来て製作したものと思われます。日本での製作時期を3世紀末、古墳出土を4世紀としますと、次のような経過が考えられます。

漢が220年に滅びた後、中国は魏・蜀・呉の三国時代に入ります。しかし、内陸部を支配していた蜀が263年年に魏に滅ぼされます。その後、中央部を支配していた魏が265年に滅び、晋(西晋)に代わります。続いて、南部を支配していた呉が280年にその晋に滅ぼされます。

以上の経過から、呉の人々が日本に来たのは、呉が滅びた280年頃と歴史的経過から推察されます。

何故、日本に来たのかですが、もともと呉は中国南部の稲作地帯にあり、日本と朝鮮半島に水田稲作を持ち込んだマレー系の人々の故郷です。その意味で、呉の時代も交流は続いていたと思われます。

そして、呉が滅びると、新天地を求めて大挙して移住してきたのではないかと推察されます。当時、日本はまだ田舎であり、先進技術を持っていた人々は歓迎されたと思われます。

当時、日本を統治していたのは、北九州地域では邪馬台国後継王家、そして、近畿地域ではツングース系王家でした。

紹介してきましたように、近畿のツングース系王家は、3世紀の奈良纏向遺跡に始まり、4世紀にはいくつもの巨大古墳を建造し、発展し、支配地域を広げていました。そして、支配を強化するため、支配地と王家を結ぶ宝物を必要としていたと思われます。

この宝物は、卑弥呼が中国の魏からいただいた「銅鏡100枚」と同じようなもので、地方の首長は、それを持つことによって強大な大和のツングース系王家の臣下となり、かつ、後ろ盾を得ていることを示すことができたのではないかと思われます。

こうしたなか、呉から来た鏡職人は、その宝物、すなわち「三角縁神獣鏡」の製作者として歓迎されたと思われます。

因みに、その「三角縁神獣鏡」の都道府県別の分布ですが、「三角縁神獣鏡の謎」によれば、下表のとおりです。

三角縁神獣鏡の分布

ここから、当時4世紀の奈良のツングース系王家と他地域との関係が分かります。すなわち、近畿地域が圧倒的に多く、続いて、東海、中国地域が多く、ツングース系王家の支配地、あるいは地域首長とツングース系王家の関係が分かります。

これらの地域外では、福岡が特に多い特徴があります。これは、おそらく、奈良の大和政権は福岡各地の首長(豪族)と関係をもっていた可能性があり、この状態は北九州倭国が独立する4世紀後半まで続いていたと思われます。このことについては後程さらに検討する予定です。

また、関東では群馬に多い特徴があります。おそらく奈良王家は、群馬を関東支配の拠点にしようとし、関係を強めようとしていたのかもしれません。

そして、5世紀になりますと、奈良王家は拠点を大阪に移し、さらに大きな発展を遂げたことはこれまでの報告のとおりです。

まとめますと、三角縁神獣鏡は、3世紀中ごろに奈良に権力を確立したツングース系王家が、臣下の関係を示すシンボルとして3世紀末に呉の職人に作らせたもので、ツングース系の臣下の多い近畿地方に多く配られたものと思われます。



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