ツングース系王家はなぜ朝貢しなかったのか

ツングース系王家はなぜ朝貢しなかったのか(古代史の問題)
多数の巨大古墳を建造したツングース系王家が3~5世紀に奈良・大阪にあったことを検討してきました。このことは、実在する古墳や馬具工房跡などの遺跡からだけ言えることです。残念ながら、魏志倭人伝のような外国記録は、朝貢が無かったためか、奈良・大阪のツングース系王家についてはありません。
関連し、「ツングース系王家はなぜ朝貢しなかったのか」について、今回は愚考します。
その理由は2点、考えられます。
第1点目は、敵対する対抗勢力はなく、外国の後ろ盾は要らなかったため朝貢は必要なかったことです。すなわち、民は、アイヌ系等の縄文人由来が大半で従順でした。一方、ツングース系王家は、近畿地域に居るツングース系民族の協力があり、強力であり、かつ一強でした。
臣下の関係を示す「三角縁神獣鏡」も製作し、東は群馬、西は福岡まで4世紀に配布しました。また、5世紀には騎馬軍団と準構造船を持ち、最強となりました。このため、外国に頼る必要はありませんでした。
なお、騎馬軍団と準構造船について、詳しくは「馬とツングース系王家」を参照願います。
第2点目は、外交したくても適当な外国が見当たらなかったことです。例えば、中国ですが、3~5世紀は分裂しておりました。
また、同じツングース系の仲間の国については、新羅、高句麗が考えられますが、高句麗については中国と対立しており朝貢相手として適当ではありません。一方、先に紹介しましたように、新羅は4世紀に建国したばかりで、5世紀は高句麗、百済、北九州倭国に責められ、日本のツングース系王家と交流する余裕はありませんでした。
以上のことから、奈良・大阪のツングース系王家については、外国に記録がありません。
そして、6世紀になると、時代は変わり、巨大古墳建造に対する民衆の疲弊と怒りは大きくなりました。そして、この民衆の怒りを味方にしたアイヌ系「継体天皇」(在位:507-531年)にツングース系王家は滅ぼされてしまいました。
世界遺産となった仁徳天皇陵などの巨大古墳や王宮についてのツングース系王家の記録がまったく残っていないことから想像しますと、アイヌ系出身の「継体天皇」の怒りは極めて大きく、おそらく王家記録抹殺のための焚書があったものと思われます。
また、それらの王家の末裔も確認されていません。歴史の反動と言いますか、ツングース系王家と関係していたことを名乗り出ることができないような時代が続いたと思われます。このことについて、詳しくは「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。
まとめますと、奈良・大阪のツングース系王家は、巨大な敵が無かったため、外国の後ろ盾は必要なかったこと、また、中国は分裂していたため朝貢はしなかったことが考えられます。そして、その王家は6世紀初(507年?)に継体天皇に滅ぼされましたが、焚書があり、記録は残らなかったと思われます。
関連し、奈良・大阪のツングース系王家の黄金時代5世紀前半の様子を上トップに示しました。

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