倭国の大乱の原因は民族対立だった
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レインボー

倭国の大乱の原因は民族対立だった(古代史の問題)
魏志倭人伝によれば、3世紀前半に倭国の大乱があり、そのなかで「卑弥呼」が女王に推挙され、大乱がおさまったとあります。
また、北九州地域の傷ついた多数の人骨遺跡から、その大乱では激しい戦争があったことが伺えますが、何故、このような激しい大乱が起きたのか分かっていません。一説には、弥生時代が発展し、食料が増産され、その富の分配の争いが主要因と言われますが、それだけで激しい争いが起きるものなのか、すっきりとした解答は得られていません。
因みに、北関東・東北南部も弥生時代に発展し富が増えたことは明らかですが、倭国の大乱のような争いは確認されていません。詳しくは「弥生稲作と戦いはリンクしているのか」を参照願います。
一方、その時代の遺跡として佐賀県の吉野ケ里が有名ですが、最近、そこから前方後方墳(方墳)が3基見つかっています。
前方後方墳は方墳の一種で、ルーツは朝鮮半島ツングース系の墳墓と判断されますが、このことから、吉野ケ里の支配者はツングース系の首長だったと判断されます。
北九州は、稲作民族のマレー系が多く居たところと拙ブログでは見てきましたが、以上のことは、多数派のマレー系の上に少数派のツングース系の首長が居たという問題があった可能性を示唆します。
なお、北九州にマレー系が多かったことについては、「邪馬台国の場所と民族」を参照願います。
前置きが長くなりましたが、関連し、今回は、吉野ケ里遺跡の前方後方墳と倭国の大乱の関係について愚考します。
まず、吉野ケ里のある北九州の弥生時代発展の経過について、次のように考えることができます。
北九州は、3000年前頃から南方系のマレー系が移住し、石器による水田稲作を始めた地域でした。そこへ、2300年前頃、鉄製農具を持った北方系のツングース系が入ってきました。鉄製農具は、水路や畔造成に必要な道具で、水田稲作にたいへん有用です。このため、鉄器と共にツングース系民族は受け入れられました。
その結果、水田稲作は発展し、富が生まれ、人口が増え、首長が生まれました。おそらく、吉野ケ里で首長になったのがツングース系であり、その結果、ツングース系首長のシンボルである前方後方墳が作られたのではないかと思われます。当然のことですが、他の地域にはマレー系の首長も居たと思われます。
吉野ケ里のツングース系首長の場合、少数派が多数派を支配するという矛盾がありました。さらに、他の地域にはマレー系の首長が居ました。この結果、主導権争いという戦争に発展し、これが倭国の大乱の主要因となったのではないかと思われます。例えば、ツングース系首長とマレー系首長の争いがあちらこちらで発生した等です。
卑弥呼について考えますと、鬼道に通じていたとあります。この鬼道(占い)のルーツは北方系ですので、卑弥呼はツングース系女性シャーマンだった可能性があります。詳しくは「卑弥呼は北方系色白美人であった愚考」を参照願います。
また、南方の狗奴国(熊本県辺り?)は女王国に従わなかったとあります。これは、狗奴国はマレー系やアイヌ系が多く、ツングース系の女王を好まなかった可能性もあります。
そして、卑弥呼が死ぬと、また大乱になったとありますが、卑弥呼の登場は一時的なもので根本解決、すなわち民族対立の解決にはならなかったと想像できます。
その後、台与を立て再度倭国の大乱はおさまりました。その後の経過は不明ですが、拙ブログでは次のように考えています。
その後、4世紀後半になりますが、多数派のマレー系はツングース系首長を追い払い、自らの政権「倭国」を立てたと推察されます。
この後ろ盾のなったのが同じマレー系の百済と思われます。「倭国」は、百済と連合し、399年~404年にツングース系「高句麗」の広開土王と戦ったとありますので、この「倭国」の建設時期は、4世紀中頃以降と思われます。詳しくは「空白の時代があったのか」を参照願います。
なお、百済は、歴史的に確認できるのは4世紀前半となっています。もともと百済の地域は朝鮮半島南西部の稲作地帯にあり、稲作民族のマレー系が多数居たところです。おそらく、多数派のマレー系が4世紀前半に自立したと思われます。そして、北九州のマレー系を救援し、マレー系連合関係を作り、北方の強敵「高句麗」と共同して戦ったのではないかと思われます。
まとめますと、吉野ケ里の前方後方墳の存在は、倭国の大乱に関し、少数派のツングース系首長と多数派のマレー系首長の対立という民族問題を示唆します。
関連し、3世紀の状況を上トップ図に示しました。

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