邪馬台国の支配者はツングース系だった
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レインボー

邪馬台国の支配者はツングース系だった(古代史の問題)
前回、北九州にあった邪馬台国の住民の多くは南方系稲作民族のマレー系であったが、支配していたのは北方系のツングース系であったことを、前方後方墳の存在から推察しました。
関連し、今回は、「魏」という国への朝貢という外交姿勢からも、ツングース系であったことが伺えることを愚考します。
日本の邪馬台国時代の3世紀、中国は魏・蜀・呉の三国志の時代です。すなわち、揚子江北部平原を支配していた魏、西部盆地を支配していた蜀、揚子江平原を支配していた呉がありました。
また、朝鮮半島は、北部は高句麗、南部は三韓(馬韓、弁韓、辰韓)地域に分かれていました。
そして、古代日本の外交ですが、まず、1世紀(57年)、北九州にあった奴国が漢に朝貢し、「漢委奴國王」(かんのわのなのこくおう)という金印をいただいたという話は有名です。
続いて3世紀の邪馬台国時代ですが、女王は魏に朝貢し親魏倭王の封号を得ています。
なぜ魏に朝貢したのでしょう。三国志の時代ですので、南部の呉に朝貢することもできたはずです。特に邪馬台国が稲作民族マレー系の国なら、稲作民族の多い呉の方に朝貢したと思われます。事実、後の5世紀「倭の五王」時代、南朝(宋)に朝貢しています。
また、漢字の読み方に南方系の呉音読みと北方系漢音読みの2種ありますが、日本は南方系の呉音読みを採用しています。これは、中国の南方系と縁の強かった百済から仏教(漢字経典)を導入した影響と言われます。詳しくは「万葉仮名のルーツは百済で使われていた漢字」.を参照願います。
そこで、これらのことについて整理しますと、次のことが考えられます。
前回指摘のように、邪馬台国の時代、北九州地域を支配していたのは朝鮮半島をルーツに持つ少数派のツングース系民族の首長でした。
ツングース系高句麗の場合の外交ですが、高句麗は、魏に朝貢していたことが分かっています。そして、同じくツングース系の新羅ですが、新羅は高句麗を介して 377年に北朝(前秦)に朝貢したとあります。
すなわち、ツングース系国家が朝貢する場合、中国の北朝が一般的です。同じように、邪馬台国も首長はツングース系であり、北朝(魏)に朝貢し、魏の後ろ盾を得て、争いの多い邪馬台国を治めようとしたと思われます。
特に、邪馬台国は、南部に対立している狗奴国があり、少数派のツングース系にとって、大国からの支援は重要だったと思われます。
まとめますと、北九州は稲作民族のマレー系が多数派でしたが、最初に支配したのは鉄器を持っていたツングース系の首長でした。しかし、少数派だったため、他のマレー系首長と争いが絶えず、これが倭国の大乱の要因だったと思われます。
卑弥呼もツングース系首長グループで、南部の狗奴国との対立もあり、魏に支援をもとめて朝貢したと推察されます。
そして、前回も指摘しましたが、4世紀中ごろになると、逆に百済の支援を受けた多数派のマレー系が倭国の実権を握りました。5世紀には倭の五王時代となり、南宋に朝貢し、同胞の百済支援のため、朝鮮半島に出兵し、ツングース系の高句麗、新羅と戦うようになったと理解されます。
関連し、3世紀邪馬台国時代と5世紀の倭国時代の外交の様子を上トップ図に示しました。

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