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北九州倭国と大和のツングース系王家の関係

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北九州3~4世紀の状況


北九州倭国と大和のツングース系王家の関係(古代史の問題)

三角縁神獣鏡は、4世紀初期に、奈良(大和)のツングース系王家が呉の技術者に作らせ地域首長に配布したものであり、それは王家と地域首長の臣下の関係を示すものであることを先に指摘しました。

そして、三角縁神獣鏡は、王家の中心地だった近畿に圧倒的に多く出土し、地方では福岡に多く出土していることを紹介しました。詳しくは「三角縁神獣鏡が近畿に多い理由愚考」を参照願います。

三角縁神獣鏡の出土するのは4世紀の古墳ですが、この時期は、北九州では邪馬台国時代(3世紀)の次の世紀に当たります。

関連し、今回は、邪馬台国後の北九州と大和ツングース系王家の関係について愚考します。

魏志倭人伝によれば、女王「卑弥呼」が亡くなった後、再度大乱が起き、同じく女王「台与」を立て収まったとあります。「台与」は鬼道(占い)を得意とする「卑弥呼」の後継者ですので、同じく女性シャーマンだったと思われます。

このシャーマンのルーツは朝鮮半島のツングース系にありますので、3世紀後半、北九州は引き続きツングース系が支配者だったと思われます。

そして、4世紀になりますと、奈良(大和)のツングース系王家は多量の「三角縁神獣鏡」を製作し、地方の首長に配りました。先に述べましたように、この鏡が福岡でも多数発見されていますが、このことは、福岡の首長の多くが大和の王家と臣従の関係を結んだ可能性があります。特に、少数派ツングース系首長は、地位の安定を求め進んでその関係を持った可能性があります。

一方、朝鮮半島では百済が4世紀中頃現れます。Wikipedia(百済)によれば、「百済は4世紀後半の近肖古王の治世下、371年に高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる戦果をあげた」とあります。

百済は、稲作地帯の朝鮮半島中西部にありますが、中国南部のマレー系民族が渡来し、水田稲作を始めた場所です。その後、広開土王碑文によれば、百済は倭国と連合し、4世紀末(399-404年)に高句麗と戦ったとありますので、おそらく、4世紀中ごろ、マレー系民族の国として独立していたと思われます。

以上の広開土王碑文は、百済と同じようにマレー系の多い北九州倭国も4世紀後半にはマレー系国家として独立していたことを示します。これには、近隣で同胞の百済の援助があったことが推察されます。

関連し、魏志倭人伝にあります卑弥呼と対立した南部の狗奴国(熊本県辺り?)ですが、もともと縄文系のアイヌ系やマレー系の多い地域ですので、4世紀には倭国の一部となったと思われます。この結果、倭国は福岡、佐賀、熊本を中心とする中規模国家になり、朝鮮半島の高句麗だけでなく、東側の大和ツングース系王家とも対立するようになったことが推察されます。なお、熊本県の古代の状況については後に検討する予定です。

この倭国独立の時、福岡のツングース系グループは追い払われたか、または服従したと思われます。

関連し、そのときの大和のツングース系王家の対応ですが、4世紀前半に臣下の関係を示す三角縁神獣鏡を福岡の首長に贈った関係があります。しかし、北九州の首長を助けるための支援はなかったことが推察されます。この理由として、4世紀後半、支配地域は近畿と周辺だけで、まだ力は弱く北九州という遠くの地域の仲間を支援する余裕はなかったことが挙げられます。

そして、4世紀までの北九州の支配者の状況ですが、奈良・大阪のような200mを超える巨大古墳はありません。このことは、首長が分裂していて、奈良・大阪のツングース系王家のような巨大王家はなく、首長連合のような状態が続いていたことが推察されます。

また、4世紀後半に独立した北九州「倭国」は、マレー系の国であり、ツングース系に特徴的な巨大古墳建造には関心が弱かったことも推察されます。因みに、倭国地域の最大古墳は、6世紀に建造された磐井王の墓と言われる「岩戸山古墳」ですが、墳長は135mで、奈良・大阪にあるような200mを超える巨大古墳ではありません。

また、卑弥呼の時代ですが、邪馬台国連合と言われている状態で、巨大な権力者は居なかったと推察されます。これは、マレー系、ツングース系ともに分裂しており、強力なリーダーが現れなかったためと思われます。

まとめますと、3世紀に邪馬台国のあった北九州地域は、4世紀も引き続き少数派ツングース系首長連合の支配が続きましたが、4世紀中頃、百済の支援を受けた多数派のマレー系が実権を握り、「倭国」となり、百済と連合して高句麗と戦うようになったと推察されます。

一方、4世紀の奈良のツングース系王家は始まったばかりで、かつ北九州とは離れた場所にあり、倭国との直接の対決は無かったことが推察されます。

関連し、北九州倭国の3~4世紀の状況を上トップ図に示しました。

なお、こうしたことが日本の歴史資料に現れない理由ですが、8世紀に作成された古事記と日本書紀(記紀)では万世一系の歴史観の方針があり、奈良・大阪のツングース系王家と北九州の「倭国」の歴史は抹殺され、それらの歴史は見えなくなってしまったことが最大の理由と思われます。



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