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卑弥呼の墓はツングース系由来の方墳だった愚考

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邪馬台国時代の状況と卑弥呼の墓


卑弥呼の墓はツングース系由来の方墳だった愚考(邪馬台国と日本人)

邪馬台国は北方系(ツングース系)首長の国であったことを、方墳という首長墳墓様式と中国への朝貢様式から前回検討しました。

また、女王となった卑弥呼ですが、鬼道(祈祷)を得意とするとあります。祈祷は北方系にルーツがありますので、卑弥呼もツングース系の仲間だったと推察されます。詳しくは「卑弥呼は北方系色白美人であった愚考」を参照願います。

関連し、今回は、卑弥呼の墓はツングース系の方墳だったことについて愚考し、その場所を特定します。

まず、邪馬台国の場所については、畿内説と北九州説があると一般に言われますが、実際は北九州説を支持している研究者が大半です。その意味で、この場所論争は決着がついています。

拙ブログでも、魏志倭人伝の「倭人は分身(入れ墨)をしていて海南島の人達に似ているという南方的特徴」から、北九州にあったことを支持しています。詳しくは「邪馬台国はどこにあったのか」を参照願います。

しかし、卑弥呼の墓となると、諸説あり、未だに決着がついていない感じです。

そこで、卑弥呼はツングース系だったことから、その墓は北方系に多い方墳、サイズは魏志倭人伝の「径百余歩の墓に葬られた」から直径30m~50m、場所は同じく魏志倭人伝の通説にしたがい「伊都国から水行10日または陸行1月」の場所で検索しますと次のとおりです。

まず、これらの条件に適合する古墳は祇園山古墳になります。

関連し、「祇園山古墳(ぎおんやまこふん)」 について引用しますと、次のとおりです。


祇園山古墳(ぎおんやまこふん)は、福岡県久留米市御井町字高良山に所在し、福岡県指定史跡に指定されている方墳である[1][2]。3世紀中頃の築造と推定される。築造時期や規模から、宝賀寿男や地元研究者などにより、この古墳を邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかとする意見がある[3]。

卑弥呼の墓説

古代日本では、『魏志倭人伝』や『記紀』の中に殉死・殉葬に関する記事が見られるものの、実際の弥生墳丘墓や古墳において、確実に殉葬が行われたと捉えられる出土人骨や遺構の事例は確認されていない。福岡県糸島市平原遺跡の3号墓周濠を、底部で見つかった朱や掘り込み形状から16人分の殉葬溝と見る原田大六の見解もあったが[17]、今日の再検討報告では殉葬溝とは見なされておらず[18]、同遺跡4号墓周溝内土坑墓1基のみに対し殉葬墓の可能性が指摘される[注 1]以外は全て追葬墓と見なされている[20]。祇園山古墳の発掘調査報告書でも、墳裾外周で検出された66人分以上の墓群について、半世紀ほどの期間で造営されたとみられることから、祇園山古墳の被葬者を盟主とする集団の集団墓と捉えている[9]。

これについて宝賀寿男は、この墓群を1つの棺に「差し違い2体葬」があることや、墳丘築造前の棺が見られないこと、全ての棺が墳丘裾内に存在することなどを挙げてこれらを同時期の埋葬ではないかとして、殉葬者の墓ではないかとしている。また大塚初重の意見に賛同し、弥生時代の築造ならば集団墓ではなく個人の墓であろうとしている[3]。ただし「差し違い2体葬」については1棺への2体葬が必ずしも同時埋葬ではなく、追葬と考えうる時間差がある事例が多いことは、祇園山2号墳石蓋土壙墓例などから指摘されている[11][21]。

また宝賀は、墳墓の形状、主体部(石棺)、築造時期が3世紀中期であると考えられること、規模が一辺約23メートル・斜辺32メートルで下部が楕円状であること、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に埴輪がなく墓群があること(殉葬者と仮定)、そのうちの第1号甕棺墓(K1)からは後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1号墓からは鉄製の武器や農具が出土し、時期的に矛盾が無いことなどが『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓の記載と一致するとしている。また魏朝の薄葬令や朝鮮諸国、帯方郡の墳墓がいずれも30メートル前後の方墳であったことなど、国際的観点から照らし合わせても同墳の規模に不自然さが無く、さらにこの古墳が邪馬台国が存在した可能性のある筑紫平野を一望できる高台に占地することをあげて、卑弥呼の墓ではないかとの説を示している[3]。

そのほかに、村下要助・廣木順作が同古墳(弥生墳丘墓)を卑弥呼の墓であると主張している[22][23]。また石野博信は畿内説論者であるが、邪馬台国を筑紫に想定した場合、同古墳が卑弥呼の墓として「有力候補になってくるのかもしれない」と述べた[24]。このほか、田中幸夫は様相が卑弥呼の墓に類似するとした[25]。学術論文ではないが作家の足立倫行は、2011年に『週刊朝日』に掲載した紀行文の中で、築造を卑弥呼没年より半世紀後としつつも、卑弥呼の墓を彷彿させると述べた[26]。

(引用終了)

引用が長くなりましたが、まとめますと、次のとおりです。

祇園山古墳は、場所、規模、形態(方墳)、鏡など副葬品、殉葬者など、『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓の記載とほぼ一致しています。

結論として、この祇園山古墳は卑弥呼の墓として最有力候補と思われます。

拙ブログでは、「邪馬台国の場所と卑弥呼の墓」で伊都国の平原(ひらばる)遺跡を卑弥呼の墓と指摘したことがありますが、祇園山古墳の方が『魏志倭人伝』の卑弥呼の墓の記載と一致し、よりふさわしいと結論されます。

関連し、邪馬台国時代(3世紀)の状況を上トップ図に示しました。



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