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巨大古墳建造とツングース系王家の盛衰

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奈良・大阪の巨大古墳建造盛衰


巨大古墳建造とツングース系王家の盛衰(古代史の問題)

奈良と大阪の巨大古墳は、鉄製農具を持って朝鮮半島から渡来してきたツングース系民族の王家が建造したことを検討してきました。

関連し、今回は、ツングース系王家の盛衰を巨大古墳建造との関係で愚考します。

まず、200m以上の巨大古墳建造から、その盛衰を見ますと、上トップ図のとおりです。

この図は、「人口の少なかった奈良になぜ巨大古墳が建造されたのか」にあるデータを基に、巨大古墳38基のうち奈良・大阪にある3世紀~5世紀前の31基の巨大古墳について、1世紀を前と中~後に分けて作成しました。

この図から、巨大古墳建造は、3世紀中~後に始まり、5世紀前に絶頂期を迎えます。そして、6世紀前には無くなります。このことは、奈良・大阪のツングース系王家は、5世紀前に絶頂期を迎え、5世紀中~後に衰退し、6世紀前には滅びてしまった可能性を示唆します。

何故滅んだのかについて想像しますと、いくつもの巨大古墳建造に対し、民衆の疲弊と怒りが背景にあったと思われます。

次に、ツングース系王家の発展を検討しますと、次のとおりです。

ツングース系王家の支配地域は、その200m以上の巨大古墳建造の数と場所から推察しますと、3世紀は近畿だけ、4世紀は近畿+東海+中国地域の半分、そして5世紀は、中心地が河内(大阪)に移ったことから、近畿+東海+中国+四国と推察されます。

そして、Koyama(1978)の報告を基にツングース系王家の支配地域の人口、比較として北九州地域の人口を下表に示しました。なお、Koyama(1978)のデータには北九州地域のデータはありませんので、北九州地域人口は九州地域の半分としました。

ツングース系王家の支配地域と北九州地域人口

ツングース系王家の支配地域の人口は、3世紀は15万人、4世紀は45万人、5世紀は94万人となります。

北九州地域は、3世紀は邪馬台国、5世紀は倭国の時代に相当しますが、近畿のツングース系王家と比較しますと、人口の差異は大きく、5世紀はツングース系王家が94万人、北九州地域が15万人となっています。

この数値の差異から見ますと、ツングース系王家は、5世紀には西日本を支配する大王家になっていたと評価されます。そして、いくつもの巨大古墳建造は、その大王家の権力の象徴であったと思われます。

次に、古墳建造に係る動員数を下表にまとめました。

古墳建造のために動員された人数は、「巨大古墳建造のため奈良に動員された人数」と同じく、墳長1m当たり1万人動員として計算しました。

そして、先に示した人口を基に、巨大古墳建造に動員された人口割合を推察しますと、次のとおりです。

まず、1世紀を100年、1人当たり年間労働日数を農閑期の100日として、1年当たり動員数を算出しますとは下表のとおりです。

ツングース系王家の巨大古墳建造経過と動員数

動員されるのは青年か壮年の男性という実際場面から推察しますと、動員される対象の青壮年は総人口の約4分の1となります。この数値を基に、各地域の青壮年100人当たりの年当たり動員人数を推定しますと、3世紀は1人(0.8人)、4世紀は3人(2.8人)、5世紀は2人(2.0人)になります。

3世紀の場合は1人で、支配地域は近畿だけで大きな問題は感じられませんが、4世紀は3人と5世紀は2人と動員人数も多くなります。遠距離動員や移動のこと、毎年のこと、陰で支える者たちのこと、労働環境等を想像しますと、民衆にとって厳しいものであったことと判断されます。

さらに、以上の結果は、200m以上の巨大古墳だけの数値ですが、200m以下の古墳も多数あります。これらの古墳を含めると、動員人数はさらに多くなり、民衆の負担はさらに多かったことは言うまでもありません。

まとめますと、奈良と大阪に巨大古墳を建造したツングース系王家は、近畿、東海、中国、四国を支配地とする大王家に発展し、5世紀前期に最盛期を迎えました。しかし、巨大古墳建造に対する民衆の疲弊と怒りから、5世紀後期に衰退し、6世紀前半には滅ぼされたと推察されます。

巨大なツングース系王家を滅ぼした主役は、福井出身のアイヌ系豪族の継体王、後の継体天皇(在位:507-531年)と思われます。この方面は次回、報告します。



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