fc2ブログ

関東の碑文入り鉄剣と装飾古墳のルーツは北九州倭国

0 Comments
レインボー

5世紀の倭国と関東


関東の碑文入り鉄剣と装飾古墳のルーツは北九州倭国(古代史の問題)

有名な関東地域の古代遺跡物として、埼玉県稲荷山古墳出土の碑文入り鉄剣があります。同じような碑文入り鉄剣が、熊本県の江田船山古墳から出土しています。それらは、どちらも5世紀に作られたもので、「獲加多支鹵(エカタシロ)大王」が日本に居たことが書かれております。

一方、時代が7世紀になりますが、北九州がルーツと思われる「装飾古墳」が、関東に多く認められます。

この「装飾古墳」は、ブログ「地図を楽しむ・古代史の謎」の「舩塚山古墳は東国2位・常陸国茨城郡の国府の近くにある」によれば、「常陸国の古墳のなかには、有明海文化圏の影響を受けた彩色装飾古墳が何か所もあります。ちょっと、気になりますね。こんなに遠く離れているのに。」とあります。

これらのことから、碑文入り鉄剣と装飾古墳が、何故、九州と関東という離れた地域にあるのか謎に満ちているとも言われます。

関連し、今回は、碑文入り鉄剣と装飾古墳が、何故、九州と関東にあるのか愚考します。

まず、碑文入り鉄剣が何故関東にあるのか検討しますと次のように考えることができます。

熊本県の江田船山古墳の鉄剣から推察しますと、これは倭国の領域ですので、そこに居た王が、北九州倭国の大王からいただいたものと思われます。同古墳から豪華な王冠等も出土しており、これらは百済の影響が確認されております。すなわち、百済と友好関係にあった倭国由来のものと思われます。

一方、埼玉県稲荷山古墳出土の碑文入り鉄剣ですが、北関東の大王(おそらく太田天神山古墳に眠っている大王)に使えた者が、その業績を認められ、その業績を残そうとした。そして、碑文入り鉄剣を倭国(北九州)で作ることができることを知り、辛亥年(471年)に倭国の関係者に依頼して作ったというのが真相と思われます。

そして、鉄剣碑文に記載されている獲加多支鹵大王(エカタシロ)大王の意味ですが、倭国はマレー系民族の国家でしたので、それをマレー語の英語訳で読むと次のとおりです。

「エカタシロ」は、エカ(eka)=single、タシ(tasih)=love、ロ(roh)=spirit、すなわち、エカタシロ=愛の精神をもった者=慈悲深い者(大王)という意味になります。詳しくは「エカタシロ(ワカタケル)大王の意味」を参照願います。

その5世紀の北九州は倭国の倭王「武」の時代ですが、彼は中国南朝(宋の順帝)から「安東大将軍 倭王」という称号を478年に授与され、朝鮮半島南部と北九州を支配する大王と認められ、その名前は以前から関東まで響いていた可能性があります。

たとえば、倭王「武」が関東に来たことが常陸国風土記に書かれているという説もあります。この説については次回報告します。

また、北九州由来と推察される同様な5世紀の関東の遺跡として、茨城の「三昧塚(さんまいづじか)古墳」が知られています。こちらの方は、同じく熊本県の江田船山古墳から出土した金銅冠と同じようなものが出土しており、こちらも九州倭国と交易していたことを示すものと思われます。詳しくは「古墳時代の関東の中心地愚考」 を参照願います。

なお、「獲加多支鹵(エカタシロ)大王」を「ワカタケル大王」(雄略天皇)とする説がありますが、この説は次の6点の問題があります。

 ① 万葉仮名の専門家によればワカタケルと読めない。
 ② 「ワカタケル大王」と読めたとしても、雄略大王とは読めない。雄略天皇は「幼武」と呼ばれていたからワカタケルというのは、こじつけである。碑文に何故「雄略大王」と書かなかったのか説明が必要である。
 ③ 雄略天皇については王宮跡不明かつ王墓も不明で存在も確認されていない。
 ④ 畿内で5世紀は河内(大阪)政権で大仙陵古墳など巨大古墳建造の時代であったが、鉄剣碑文に相当するような遺跡物は出ていない。
 ⑤ 5世紀後半の畿内は、ツングース王家時代であるが、巨大古墳建造が少なくなり弱体化していた時代であり、関東に影響があったとは考えにくい。
 ⑥ さらに畿内政権が関東まで支配していた証拠は無く、後の大宝律令(701年制定)の時代でも大和政権の関東支配は書いてない。


そして、当時5世紀の大王ですが、東海、近畿、中国、四国地域は大阪(河内)のツングース系大王が支配し、北九州方面はマレー系の倭の五王が居ました。一方、関東には、アイヌ系が圧倒的多数派の地域であり、アイヌ系の大王が多く居たと思われます。

民族対立から見ますと、強大なツングース系大王がアイヌ系の人々を使い奈良・大阪で巨大古墳を建造したことから想像すると、関東の大王の多くはアイヌ系であり、大阪のツングース系大王を避けていたのではないかと思われます。

次に、7世紀の装飾古墳と関東の関係ですが、6世紀に近畿では継体天皇(在位:507-531年)によってツングース系王家を滅ぼされる事件が起きました。

このことから、畿内政権は始まったばかりで、7世紀になっても都もなく、関東への影響は弱かったと推察されます。すなわち、北九州倭国が7世紀も日本の中心地であったことは変わらなかったと思われます。

それらの関係から、関東では、当時北九州で流行っていた装飾古墳を、畿内政権を通さず導入したのが真相と思われます。詳しくは「装飾古墳は九州倭国から関東に導入された」を参照願います。

まとめますと、熊本県と埼玉県で出土した5世紀の碑文入り鉄剣、そして、倭国と関東で流行った7世紀の装飾古墳は、7世紀まで日本の文化の中心は北九州倭国にあり、関東の大王が先進文化を求めて北九州倭国と交流してきたことを示すものと思われます。

関連し、5世紀の日本の様子を上トップに示しました。



日本史ランキング
レインボー
Posted byレインボー

Comments 0

There are no comments yet.