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北九州の倭王「武」は関東に来ていた

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倭王武と関東の古代


北九州の倭王「武」は関東に来ていた(古代史の問題)

前回、北九州の倭王「武」は、中国南朝(宋の順帝)から「安東大将軍 倭王」という称号を478年に授与され、朝鮮半島南部と北九州を支配する大王になったこと、関連し、その名は関東まで響き渡っていたことを埼玉県出土の鉄剣碑文から推察しました。

一方、ブログ「うっちゃん先生の「古代史はおもしろいで」」が「「常陸の国風土記」に「倭武天皇」太宰府に拠点、皇后も登場、睦まじく遊ぶ」を紹介しております。

この記事では、北九州の倭王「武」が関東に実際に来ていたことが「常陸の国風土記」に書いてあることを紹介しております。

関連し、今回は、北九州の倭王「武」は実際に関東に来ていたことについて愚考します。

まず、上記記事の一部を紹介しますと次のとおりです。


最後の「倭(い)の武」は列島の「史書」にも登場していることを思い出してほしい。これまでに何回かふれたが『常陸国(ひたちのくに)風土記』だ。

この「風土記」の中心にいるのは「倭武天皇」で、そのままの名で登場する。びっくりするのは「景行天皇」もこの地を訪れていたという記述だ。『記』にはまったく記されていない。

この「風土記」の中身を見てみよう。

①≪常陸の国司、解(上申)して申す。古老相伝の旧聞の事≫倭武天皇、東の国を巡狩し、新治縣(にいはりのあがた)に幸(いで)ます。(派)遣していた国造ヒナラスの命(みこと)に新たな井(戸)を掘らしめるに、流泉浄(きよく)澄み、いと好く愛(うま)し。時に(倭武)、乗輿(みこし)を止めて、水をめで、手を洗う・・・
②≪筑波郡≫古老曰く、筑波の縣は古(いにしえ)「紀の国」と謂(い)ひき・・・
③≪筑波郡≫筑波の岳は往き集い、歌舞し飲み食いすること今に至るまで絶えざるなり(歌垣)
④≪信太(しのだ)郡≫大足日子(おおたらしひこ=大帯彦=景行)天皇、浮島の帳宮(かりみや)に幸ます。水の供御無かりき。即ち卜者(うらないのもの)を(派)遣し占を問わしめて穿(ほら)しむ・・・
⑤≪信太郡≫古老曰く「倭武天皇、海辺を巡幸し、乗浜に行き至る。この時浜浦に多く海苔(のり)乾かせり。是により名をノリハマの村と
⑥≪茨城郡≫昔、倭武天皇、丘の上に停留し、御膳を進め奉る時、水部に新しい清井を掘らしむ。出泉浄(きよ)く飲喫にいと好かりき
⑦≪行方(なめかた)郡≫倭武天皇、天下を巡狩し、海北を征平す・・・よろしくこの地を行細(なめかた)の国というべし、と
(中略)

この風土記には計14カ所に倭武天皇の行動や事績が伝えられている。⑦「天下を巡狩した」「海北(朝鮮半島)を征平す」と書いているからこの天皇が『宋書』などに記す「倭武天皇」であることがわかる。もちろん、倭武天皇が常陸の国に都を置いていたわけではないことは⑬「皇后が倭(い)より降り来てこの地で(天皇と)会う」などの表現からも明らかだ。

(引用終了)

一方、倭武天皇は北九州の倭王武ではなくヤマトタケルのことという記事が多くあります。例えば、「常陸国風土記にヤマトタケル「天皇」が登場するのはなぜか・・」によりますと次のとおりです。

常陸国風土記には、「倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)」という、日本書記にも古事記にも出てこない天皇が登場します。日本書記には日本武尊(やまとたけるのみこと)という名の、古事記には倭建命(やまとたけるのみこと)という名の人物が登場しますが、天皇ではなく夭折する皇子として描かれています。

これに対し、常陸国風土記では、なぜ「天皇」として語られているのでしょうか。「古事記や日本書記のヤマトタケルの伝えでは、常陸国は通過点としてしか存在せず、ほとんど無視されている。それなのに、常陸国風土記では、一方的なかたちで倭武天皇への熱い思いを寄せるのである。これはどう考えても、現存する中央の歴史とは別の歴史認識が存在したと考えるほかはない」。
(引用終了)

引用が長くなりましたが、上記2点の引用資料をまとめますと、常陸国風土記の倭武天皇は、北九州の倭王「武」説と、古事記にある伝説上のヤマトタケル説という対立した説があることになります。 

そこで二つの説についてまとめますと下表のとおりです。

常陸国風土記の倭武王は誰

いわゆる従来の伝説のヤマトタケル説は、まず、天皇でないことに問題があります。また、風土記の書かれた時期が8世紀ですので、ヤマトタケル説の3~4世紀の話となると、風土記としては古すぎる時の話で事実でない印象を受けます。「倭武」の読み方を古事記にある伝説のヤマトタケルとすることも難点があります。決定的な問題は、「常陸の国風土記」の内容は、井戸など治水の話が中心で、若くして亡くなったヤマトタケルという武勇伝の話ではないということです。

一方、倭王「武」説ですが、遠くから来たところ以外に難点はありません。もともと倭国は海洋系マレー人の多い所ですので、船で移動したとすれば関東への移動は困難でありません。例えば、倭王武は、中国南朝に朝貢しておりますが、こうしたことを考えれば、関東は遠くの地ではありません。

特に決定的なのは、上記引用のとおり、倭武天皇について「「天下を巡狩した」「海北(朝鮮半島)を征平す」と書いてあることと思われます。この内容は倭王「武」のことです。

また、茨城県(常陸国)では、行方(なめかた)市の三昧塚(さんまいづじか)古墳からは八頭馬形飾金銅冠が出土していますが、この金銅冠と同様なものが北九州の遺跡からも出土しており、茨城の金銅冠は北九州倭国由来と推察されますので、北九州倭国との深い関係、すなわち倭王「武」との関係が感じられます。 

また、関東に来た理由ですが、5世紀後半、当時、倭国と畿内のツングース系王家は対立していました。関東を味方につけ、強大なツングース系王家を北九州と関東で挟み、抑えようとしていた戦略があった可能性もあります。

また、常陸国風土記の背景ですが、作られた奈良時代は、天皇という呼称が使われ始めた時代です。倭王「武」は、何度も指摘していますように北九州だけでなく朝鮮半島の南部も支配した大王です。その大王が関東にも来たとすれば、倭武天皇と記載して風土記に残すことは不自然でありません。

以上、まとめますと、常陸国風土記に記載されている倭武天皇は、従来説のヤマトタケルではなく、新説の倭王武の可能性が高いと思われます。そして、この説が有力になりますと、埼玉県出土の鉄剣碑文の「エカタシロ大王」は倭王「武」の可能性がさらに高くなります。

なお、鉄剣碑文について詳しくは「エカタシロ(ワカタケル)大王の意味」を参照願います。

関連し、5世紀倭王武の時代の日本の様子を上トップ図に示しました。



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Posted byレインボー

Comments 2

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石山
九州と磐城の関係が理解出来そうです

興味深く拝見しました。九州と磐城の古代遺物の関係がこれまで不明瞭でしたが、それなりに理解できてくるように感じます。

  • 2020/11/01 (Sun) 16:51
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レインボー
レインボー
Re: 石山様、九州と磐城の関係が理解出来そうです(感謝)

石山様
コメント、ありがとうございます。
九州と関東の関係、さらに検討が必要と感じています。
草々

  • 2020/11/02 (Mon) 06:57
  • REPLY