fc2ブログ

白村江の戦いにおける海戦の真相

2 Comments
レインボー

白村江の海戦の真相


白村江の戦いにおける海戦の真相(古代史の問題)

前回、遣唐使の記録を検討し、白村江の戦い(663年)は、実際は、北九州倭国軍と唐軍の戦いであったことを紹介しました。日本書紀では、大和政権が唐と戦ったとありますが、それは日本書紀の歴史改竄と思われます。

関連し、今回は、海戦の記述から、そのことを観てみたいと思います。

まず、日本書紀をベースにしたWikipedia(白村江の戦い)によれば次のとおりです。


軍事力[編集]
唐・新羅連合軍[編集]
総兵力は不明であるが、森公章は総数不明として、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと推定している[1]。また唐軍は百済の役の際よりも増強したともされる[4]。当時の唐は四方で諸民族を征服しており、その勢力圏は広かった。この時参加した唐の水軍も、その主力は靺鞨で構成されていたという。
水軍
水軍7,000名、170余隻の水軍。指揮官は劉仁軌、杜爽、元百済太子の扶余隆。
陸軍
不明。陸軍指揮官は孫仁師、劉仁願、新羅王の金法敏(文武王)。
倭国軍[編集]
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした[20])。
(引用終了)

また、このときの唐軍の指揮官「劉仁軌」ですが、Wikiprdiaによれば次のとおりです

龍朔3年(663年)9月、百済残党を支援する倭(日本)の水軍を白村江で迎撃し、400余隻の軍船を焼き払って大勝する(白村江の戦い)。さらに百済故地の諸城を平定し、屯田を営み庶民を安心させたという。(引用終了)

また、「白村江の戦いの“信じがたい真実”…なぜ倭国軍全滅の戦争を起こしたのか?」によれば次のとおりです。

奈良時代の歴史書『日本書紀』によると、大伴部博麻(おおともべのはかま)という筑紫国の農民兵が690年に帰国した。あるじの豪族4人とともに唐軍の捕虜になったが、自分の身を売って奴隷になり、その金であるじを先に帰国させる。本人が帰国を果たしたのは白村江の戦いから27年も後だった。(引用終了)


引用が長くなりましたが、これらから白村江の戦いの真相を探ると次のとおりです。

1. 唐軍は7000余人、船舶170余隻また、船の大きさは、単純計算で40人乗りで、中型船という感じです。

2. 一方、日本書紀の記述ですが、日本軍は1万余人。船舶は唐軍と同じく170余隻ですが、唐軍と同じ船数となっているのは作為的と思われます。また、船の大きさですが、単純計算で60人乗り(1万人/170隻)で唐軍よりも大きな船です。そこで、そのような多数の大きな船をどのように作ることができたのか、疑問が残ります。当時は、そのようなサイズに遣唐使船がありますが、数隻準備するだけで精いっぱいだった時代、170隻はあり得ません。

3. また、唐軍指揮官「劉仁軌」の記事によれば、「400余隻の軍船を焼き払って大勝」とあります。さらに関連記事を見ますと倭国軍は小舟のため唐軍の船に挟まれ苦戦したとあり、日本書紀記述のような大きな船は出てきません。

4. また、日本書紀では倭国軍は北九州以外の兵力で構成されていたとありますが、日本書紀の別のところでは「北九州筑紫国の農民兵が690年に帰国した」とあります。これは、白村江の戦いの主役は北九州倭国の兵士だったことを示唆しております。

5. さらには、捕虜の帰還に関し、Wikipediaによれば、沙門道久(ほうしどうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)・韓嶋勝裟婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといわ)の名前があります。彼らは、北九州倭国の高僧、王、豪族です。

6. 以上のことをまとめますと、白村江の戦いは唐軍(中型船)と北九州倭国(小型船)との戦いであったと見ると矛盾がなくなります。詳しくは「白村江の戦いの真実、日本書紀は創作」 を参照願います。

まとめますと、前回の遣唐使内容と同様、白村江の海戦いの内容からも唐軍と戦ったのは北九州倭国であったことになります。

繰り返しますと、日本書紀では、大和政権が唐と戦ったとありますが、それは日本書紀の歴史改竄になります。これは、北九州倭国は無かったことにしている日本書紀の編集方針と思われます。

関連し、倭国王「筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)」は捕らえられ、唐軍の捕虜となり、倭国は滅びました。詳しくは「「倭国」は滅亡していた!! 白村江の戦の結末」を参照願います。

関連し、白村江の海戦の真相を上トップ図に示しました。



日本史ランキング
レインボー
Posted byレインボー

Comments 2

There are no comments yet.
石山
九州と万葉集 吉備

先進国で有った倭国 吉備などの万葉集に歌が無いことは 民族の違いなのでしょうか

  • 2020/11/12 (Thu) 16:47
  • REPLY
レインボー
レインボー
Re: 石山様、九州と万葉集 吉備

石山様
たいへん貴重なコメントありがとうございます。

九州と万葉集の関係、気が付きませんでした。
九州と吉備はマレー系の多かった地域、ヤマトの支配が遅れた地域、その指摘は当たっていると思います。

おそらく、日本語(もとはアイヌ語)の普及が遅れた結果、そのようなことが起きたのではないかと推察します。
一方、ツングース系言語ですが、文法がほぼ同じ、日本語への違和感は少なかったと思われます。
草々

  • 2020/11/13 (Fri) 07:45
  • REPLY