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白村江の戦いの和平会議(665年)で決まったこと愚考

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レインボー

北九州和平会議665年と倭国滅亡


白村江の戦いの和平会議(665年)で決まったこと愚考(古代史の問題)

前回、白村江の戦い(663年)に敗れ、倭国王「筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)」は唐軍の捕虜になり、倭国は滅亡したことを紹介しました。

このことは、北九州にあった倭国が滅び、日本は統一され、畿内政権一つになった大きな事件でした。詳しくは「「倭国」は滅亡していた!! 白村江の戦の結末 」を参照願います。

しかし、「白村江の戦い」についてネット検索しますと、ほとんどが、その戦いは、日本書紀にしたがい、日本(大和政権)と中国・新羅連合軍の戦いという記事ばかりです。北九州倭国の存在は無視されています。

関連し、今回は、その経過を辿り、北九州倭国の存在と日本書紀の歴史改竄に迫ります。

まず、白村江の戦いの経過は次のとおりです。

659年: 日本(大和政権)第4回遣唐使派遣(661年帰国)。
660年: 唐・新羅連合軍に百済が敗れ、残党が北九州倭国と日本に復活のための支援を要請する。
663年: 北九州倭国軍が支援に向かい、唐・新羅連合と対戦し、白村江の戦いで大敗し、陸上の戦いでは指揮官(倭国王)等多数が捕虜となる。
665年: 唐の劉徳高が戦後処理の使節として北九州(大宰府?)に来て、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、日本は送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。


そこで、その経過を詳しく検討しますと、不思議なことに665年の戦後処理の内容が明らかになっていません。

一般に、敗戦国は戦勝国に何らかのものを提供しなければなりません。しかし、日本(大和政権)は何も失っていません。

前回も紹介しましたが、捕虜になったのは倭国王初め北九州倭国関係者ばかりです。日本書紀に、「指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津」等、大和の指揮官の名前が入っていますが捕虜になった者は居ません。大多数のネット記事が本当ならば、倭国王ではなく、大和の指揮官等が捕虜になったはずです。

そこで、前後関係から想像しますと、665年の戦後処理では、次のようなことが基本にあったと推察されます。

1. 今回の戦争は北九州倭国が起こしたもので、日本(大和政権)は関係がない。
2. 戦後処理として、百済を支援してきた倭国は抹殺、その領土(北九州)は日本の帰属とする。
3. 日本は引き続き唐の属国として扱われる。
4. 百済の残党には厳しく対処する。例えば、百済文化人の関東流刑です。

なお、百済人の関東流刑については「百済亡命移民は何故東国に移されたのか」を参照願います。

そして、日本側は漁夫の利を得て、次のようになりました。

1. 北九州倭国の地は日本の筑紫国として扱い、国司を置く。抵抗する者には厳しく対応する。
2. 日本は属国の証として朝貢(遣唐使)を続ける。

このことに関し北九州倭国の人々の思いですが、抵抗する気力は無かったと思われます。すなわち、今まで戦争が多く苦しかったが、これからは平和になると思ったことでしょう。

まとめますと、「白村江の戦い」は唐・新羅連合軍と百済残党・倭国の戦いであり、日本(大和政権)は中立で、その結果、漁夫の利を得たと結論されます。

そして、日本書紀はなぜ歴史を改竄したかですが、理由は簡単です。「日本には万世一系の大和朝廷があり、これに反することは表向き記述できなかった」ことと思われます。しかし、すべて嘘を書くわけにはいかず、北九州倭国兵の捕虜のことなど矛盾する記述も日本書紀に垣間見えることになったと思われます。

関連し、665年の北九州和平会議(大宰府?)の様子を上トップ図に示しました。



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レインボー
Posted byレインボー

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石山
大王について

原文万葉集から 高市大王 香久山宮 香久山京 長屋大王 奈良 諾楽京
香久山 諾楽京の大王は 高市 刑部 穂積 長屋 舎人 鈴鹿 阿部----安殿
かと思うものですが この天武の系列とされるものはどのような民族ないしは
系列にあるものと考えられますか

  • 2020/11/17 (Tue) 06:59
  • REPLY
レインボー
レインボー
Re: 石山様、大王について

石山様
たびたびの貴重なコメントありがとうございます。

大王の名前と民族の関係ですが、たいへん興味深いことです。

それぞれ、読み方で、アイヌ語、マレー語、ツングース語との関係が分かればなんとなく予想がつきますが、
時間のあるときに検討してみたいと思います。
草々

  • 2020/11/17 (Tue) 07:52
  • REPLY