fc2ブログ

古代の朝鮮半島の民族と国家

5 Comments
レインボー

朝鮮半島の古代国家と民族


古代の朝鮮半島の民族と国家(記事まとめ)

朝鮮半島と日本列島の古代国家について検討してきました。

現在は、朝鮮半島には朝鮮民族、日本列島には日本民族だけとなっていますが、古代には複数の民族が居て、それぞれ古代国家を建設してきました。因みに、百済はマレー系稲作民族国家、新羅はツングース系畑作民族国家と思われます。

関連し、今回は朝鮮半島の古代の民族と古代国家について記事まとめをします。

まず、現在のDNA(Y染色体ハプログループ)分類ですが、Wikipedia情報を下表に示しました。比較に日本と満州の結果も入れてあります。

朝鮮半島の民族とY染色体ハプログループ

朝鮮半島の多数派は中国系40%、続いてマレー系40%(30%という報告もあります)、モンゴル系10%、その他10%になります。なお、朝鮮半島の民族はツングース系と分類されますが、ツングース系は中国系とモンゴル系の混合混血民族ですので、ツングース系50%、マレー系40%、その他10%と分類することもできます。

これらのデータと周囲の情報から古代の状況を推察しますと、下記のようになります。

まず、マレー系ですが、マレー系の故郷のインドネシアには最古のアジア稲品種があったことが分かっています。中国南部に、1.6万年前の稲遺跡が知られておりますが、これをマレー系民族が移住し残した遺跡と推察されます。マレー系はその頃から中国に居たと思われます。詳しくは「稲作民族が江南地方から大挙移住してきたのか」を参照願います。

関連し、日本には、1.4万年前の稲のプラントオパールが鹿児島で発見されていることから想像しますと、マレー系は朝鮮半島から九州南部にかけて稲モミを持って1.4万年前から渡来していたと推定されます。

マレー系民族には、海洋系(マレー系A)と水田稲作系(マレー系B)の2種が知られていますが、朝鮮半島では水田稲作系のマレー系Bが多数派です。しかし、最初に渡来したのは少数派の海洋系(マレー系A)と思われます。

関連し、5000年前の日本の三内丸山縄文遺跡で海外交流の跡が多数発見されていますが、その時代に日本に渡来してきた民族ではマレー系だけが海洋系ですので、縄文時代の海外交流は海洋系マレー系Aによるものと推察されます。

なお、日本の稲プラントオパール調査によれば、上記の鹿児島のほか岡山県で5000年前の陸稲のプラントオパールが多量に発見されていることから、彼らはその頃から陸稲栽培もしていたと推察されます。

詳しくは「海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた」を参照願います。

一方、水田稲作系のマレー系Bですが、3000年前頃、江南地方から山東半島を経て朝鮮半島に渡来してきました。このことは、朝鮮半島の弥生遺跡「松菊里遺跡」等から分かっています。

地理的関係から、彼らは朝鮮半島南西部に居住し、少しずつ東部に居住地を広げていったと思われます。そして、稲作が発展すると、3世紀頃に百済が建国されました。

百済建国に関しては、ツングース系の夫余が建国したと言われますが、その後の経過を見ると支配者は少数派のツングース系から多数派のマレー系に変わっていったと推察されます。そして、4世紀には、北九州倭国と連合し、北の強国の高句麗と戦ったことは知られているところです。

当然のことですが、百済の言語はマレー系言語だったと推察されます。そして、その言語は日本語と同じ発音様式であることから、日本語の発音は、百済時代に日本に導入された万葉仮名と思われます。因みに、百済(くだら)はKudaraで兄弟という意味で、日本のマレー系(北九州倭国)が使った言葉と思われます。

詳しくは「万葉仮名のルーツは百済で使われていた漢字」および「古代国家「くだら」の国名由来」を参照願います。

一方、中国系とモンゴル系ですが、彼らは中国東北部の満州で混合混血し、1万年前頃、ツングース系民族となりました。生業は半農半猟と思われます。詳しくは「北方系民族故郷の満州とツングース」を参照願います。

その後、彼らは、南下し、朝鮮半島北部と東部に居住し、居住地を広げていきました。7000年前にはツングース系と見られる高身長の人骨が日本で認められていますので、彼らの朝鮮半島への渡来時期は8000年前、日本への渡来時期は7000年前頃と思われます。

ツングース系民族は、満州周辺に多数認められますが、朝鮮半島北部に1世紀に建国されたのが高句麗、続いて、朝鮮半島南西部に3世紀建国されたのが新羅となります。

新羅の慶州は2300年前頃から鉄生産の中心地になり、農業に革命を起こしました。その結果、鉄と畑作農業で発展し、3世紀に新羅建国になったものと思われます。

以上のことから、3世紀には、朝鮮半島北部はツングース系の高句麗、南西部はマレー系の百済、南東部はツングース系の新羅という3国体制になり、3国の争いが7世紀の新羅統一まで続きました。

なお、百済と新羅の間に伽耶地方がありますが、マレー系とツングース系の民族対立が続き、国家としてまとまることはできなかったと推察されます。

一方、北九州では、マレー系の倭国が4世紀に建国されました。倭国と百済は同胞であり、連携しました。関連し、これら3国と北九州倭国の関係ですが、倭王「武」が5世紀に朝鮮半島南部の中心地(伽耶地方)も支配する大王となりました。これは一時期だけですが、詳しくは「倭王武は百済の武寧王になった」を参照願います。

以上のことから、朝鮮半島は、現在は朝鮮民族だけですが、古代にはツングース系とマレー系が対立した時代が続きました。現在の朝鮮民族はツングース系に分類されますが、マレー系が40%(30%のデータも有り)含まれております。

関連し、南西部の稲作地帯にある光州は、このマレー系のルーツと見られる場所ですが、民衆と政府が対立し、500人が殺されるという韓国最大の内乱(光州事件)が1980年に起こりました。拙ブログでは、そのルーツは古代からの根深い民族対立にあったのではないかと見ています。詳しくは「百済民族の怨念と光州事件」を参照願います。

関連し、朝鮮半島の3国時代の4世紀の状況を上トップ図に示しました。この時期、日本では、鉄を持参し農業で優位に立ったツングース系民族が畿内(大和)で建設した王家の時代で、巨大な前方後円墳が多数建造されました。詳しくは、最近の関連記事を参照願います。


日本史ランキング
レインボー
Posted byレインボー

Comments 5

There are no comments yet.
-
管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

  • 2020/11/24 (Tue) 07:43
  • REPLY
maroon
新羅の王朝交代・DNA分類・九州説の問題点・古墳造成は灌漑事業の残土処理

魏志倭人伝や三国史記などによると、少なくとも4世紀までの新羅は韓人・秦人・倭人の多民族国家。
新羅本紀によると、古代新羅王家には朴氏・昔氏・金氏の3つの系統が有りました。新羅建国時の重臣は九州から派遣された倭人、昔氏は丹波王家の子孫、金氏の始祖は倭国連合の協力者。神功皇后は昔氏の系統。

○半年一年暦から中国暦へ
http://mb1527.thick.jp/N1-02-1nendaisuitei.html
古代新羅王年代推定
    在位期間 系統  
1 赫居世 144〜174 朴 孝昭天皇と同世代
2 南解 174〜184 朴
3 儒理 184〜201 朴
4 脱解 201〜212 昔
5 婆娑 212〜228 朴
6 祇摩 228〜239 朴
7 逸聖 239〜249 朴
8 阿達羅 249〜264 朴
9 伐休 264〜270 昔
10 奈解 270〜287 昔
11 助賁 287〜296 昔 
12 沾解 296〜303 昔
13 未鄒 303〜314 金
14 儒礼 314〜321 昔
15 基臨 321〜327 昔
16 訖解 327〜356 昔
17 奈勿 356〜402 金 神功皇后と同世代
18 実聖 402〜417 金

纒向の王家がツングース系という思い込みは無理が有ります。弥生遺跡で朝鮮人と類似した人骨が大量に見つかるのは大阪湾岸のみ----これは衛氏朝鮮が前漢に滅ぼされた(紀元前108年)後に来た難民と考えられる----それ以外の地域の渡来人骨はいずれも北部九州と同じ中国(山東半島・長江流域)系が殆ど
箸墓古墳の主軸線は夏至の日の出方向を指しており、縄文系の太陽祭祀と関連。

○日本列島への人類の流入
http://mb1527.thick.jp/joumon.html
モンゴル系Y染色体ハプログループは樺太経由で細石刃文化を伴って流入した日本固有のC2a2と、中国・韓国人に多いC2bとではおよそ2万3000年もの差異が有り、同じ先祖とはとても言い難い。

○「弥生人=渡来人」説の大嘘
https://magokun.hatenablog.jp/entry/2019/11/07/054723 
現在までの発掘調査から渡来系弥生人は1年に8人〜15人程度の頻度で日本に上陸したと考古学会では見積もられます。

9世紀初頭の畿内における渡来系氏族(中国系+朝鮮系)の割合は27.6%だった記録が新撰姓氏録の抄録本に残ってます。

○黥面出土の年代分析
https://blog.goo.ne.jp/mryanagi_1947/e/719e873dec84178d38d57c00ca5c1747
倭人の入れ墨の風習が弥生末期の奈良盆地周辺にあったのか?疑問視する見方は理解しますが、卑弥呼の時代の線刻人面絵画が出土してる地域は西日本では吉備地方に限定されますからむしろ投馬国を岡山と比定してる畿内説有利。

熊本県北部では弥生後期の鉄器製造所跡や青銅祭祀器具が数多く出土。北部九州と狗奴国が対立していたなら、原料の鉄や青銅は玄界灘沿岸地域を迂回して熊本に大量輸入出来なかった筈。記紀では出雲・吉備連合と大和朝廷によって共立されたモモソヒメが実権を握っていた事を隠したかったので神功皇后を卑弥呼であるかのように偽装してます。

九州説最大の弱点、韓伝と違って倭人伝だけ短里が残存していた理由
○陳寿は委奴国と邪馬台国の区別がつかなかったために行程記事に混乱が生じた
http://mb1527.thick.jp/N3-20yamataikoku.htm

現在と違って淡水の沼だらけの狭い低地でしょっちゅう洪水に見舞われ、尚且つ牛や馬の無い時代に大規模な農地開墾は極めて困難。まず土中の通気性改善・地下水のコントロールの必要性などから、垂仁天皇(278〜298年)は全国各地に800の溜池や溝を作らせました。水路や河川を使って残土を運搬するようになると、古墳は作られなくなりました。

◎巨大古墳の役割とは? 沖積平野の巨大な環境改善装置 第1回
https://chikyumori.org/2019/07/06/%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%81%AE%E5%BD%B9%E5%89%B2%E7%AC%AC1%E5%9B%9E/
◎巨大古墳の役割とは? 沖積平野の巨大な環境改善装置 第2回
https://chikyumori.org/2019/07/07/%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%81%AE%E5%BD%B9%E5%89%B2%E3%81%A8%E3%81%AF%E7%AC%AC2%E5%9B%9E/
◎巨大古墳の役割とは? 沖積平野の巨大な環境改善装置 第3回
https://chikyumori.org/2019/07/07/%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%81%AE%E5%BD%B9%E5%89%B2%E3%81%A8%E3%81%AF%E7%AC%AC3%E5%9B%9E/

レインボー
レインボー
Re: maroon様、新羅の王朝交代・DNA分類・九州説の問題点・古墳造成は灌漑事業の残土処理

maroon様
貴重なコメント、しかも長文、ありがとうございます。
参考にさせていただきます。

なお、拙ブログの、初期の大和朝廷=ツングース系ですが、遺跡の前方後円墳は新羅由来の方墳から発展した経過を重視しています。この方面でもコメントいただければ幸いです。

また、倭人が海南島の人たちに似ていることから考察しますと、邪馬台国ヤマト説は成り立たないと思われますが、この方面も検討いただければ幸いです。
草々

  • 2021/01/25 (Mon) 08:08
  • REPLY
maroon

前方後円墳のルーツについては諸説有ります。

・前方後円墳の遠いルーツは広島県北部の四隅突出型墳丘墓だった!?
https://www.hiroshima-u.ac.jp/HU_research/nojima#:~:text=%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AE%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB,%E6%98%8E%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
・前方後円墳のルーツ発見か 奈良で弥生末期の円形墓
https://www.google.com/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASJ5C7R9JJ5CPOMB00Z.html

出雲には、クニオシヒト(国王帥升等)が広島県南部の生口島で160人をかき集めて後漢を訪問しに行った、という神社伝承が残ってます。海南島の人達によく似たポリネシア系の海人族が黒潮に乗って瀬戸内海沿岸まで辿り着いた、という説も有ります。
https://gamp.ameblo.jp/starless43/entry-12568275577.html

レインボー
レインボー
Re: maroon様、前方後円墳の遠いルーツは広島県北部の四隅突出型墳丘墓だった

maroon様
たいへん貴重なコメント、ありがとうございます。

まず、「前方後円墳の遠いルーツは広島県北部の四隅突出型墳丘墓だった」ですが、拙ブログでは「前方後円墳の遠いルーツは朝鮮半島の方墳」と観ています。同様な感じかなと思っております。

また、「海南島の人達によく似たポリネシア系の海人族が黒潮に乗って瀬戸内海沿岸まで辿り着いた、という説」ですが、関連し、拙ブログでは、岡山県に5000年前の陸稲遺跡があることを紹介しております。すなわち、それは説ではなく、歴史的事実と思われます。
草々

  • 2021/02/07 (Sun) 10:00
  • REPLY