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倭国滅亡と壬申の乱の関係愚考

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壬申の乱の対立関係


倭国滅亡と壬申の乱の関係愚考(日本の古代)

北九州の倭国は、663年百済再興支援のため朝鮮半島に向かい白村江(663年)の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ、王は陸上戦で唐軍の捕虜となり、滅んだことを前回紹介しました。このとき、北九州の倭国は、この機に乗じた大和(やまと)政権軍にも攻められ、実質的に倭国の領土は大和政権に取り込まれたものと思われます。

関連し、倭国王が唐軍の捕虜になったことについては「倭国(筑紫国)最後の政権は阿毎王権」を参照願います。

この結果、日本にあった倭国は滅び、日本は大和政権だけになり、「まつろわぬ者」は関東以北の蝦夷だけになったと思われます。この時、日本を揺るがす大事件、すなわち壬申の乱が起きます。

Wikipediaによれば、それは次のとおりです。


壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[1])に起こった古代日本最大の内乱である。

天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。

名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。
(引用終了)

整理しますと、この争いでは、天智天皇(在位:668~672年)崩御の後、次期天皇予定の太子(息子)と天皇の弟(大海人皇子、後の天武天皇)が対立しました。

中央の豪族は天智天皇指名の太子(息子)側に付き西軍を形成、対して、伊勢など東側の地方の豪族は天皇の弟側に付き東軍を形成し、東西に分かれて戦ったという図式になります(下図参照)。そして、東軍の推す天武天皇(在位:673~686年)が勝利したことになります。

これは歴史的に何を意味するのでしょう。今回は、前回の倭国滅亡と関連し、壬申の乱について愚考します。

まず、北九州にあった倭国が白村江の戦(663年)に敗れ滅亡した直後の畿内政権ですが、都というものはなく、天皇が変わるたびに飛鳥や近辺に王宮を新設していた時代で、後の平城京や平安京と比べると、それは小さな王宮でした。中央の有力豪族や地方の豪族(国造)が王家を支えていた時代で、大和政権は寄合の小さな政権だったと推察されます。

しかし、663年に倭国が滅びると、大和政権は東海から九州までが範囲となり、領域が広くなりました。また、倭国が独占していた大陸との貿易権も得ました。すなわち大和政権の権益が大きくなったことになります。

こんななか、倭国を滅ぼすために軍を出した静岡等の豪族は何の報酬もなく不満が鬱積していた可能性があります。また、この機会に地方の豪族も中央の政治に参加できるようになりたいという欲望もあったと思われます。

なお、倭国を滅ぼすために軍を出した静岡等の豪族については「白村江の戦いの真実、日本書紀は創作」を参照願います。因みに、「指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした)」とありますが、倭国滅亡の後、何の報償があったのか不明です。

そこで、大海人皇子は、こうした地方の不満を取り込み、静岡、愛知、岐阜、三重(伊勢)など地方の豪族を味方につけ東軍を形成するのに成功したと思われます。

一方、天皇になったばかりの大友皇子は西軍を形成しますが、西軍側は一枚岩でなく、例えば九州の筑紫は西軍への支援を依頼されながらも参加しなかったとあります。これは、畿内政権に潰された筑紫国(元倭国)の反感があったためと思われます。また大国の吉備(岡山)も中立を選んだと言われています。

この原因は、父の天智天皇にも問題があると思われます。天智天皇はもと中大兄皇子と言われ、大化の改新を中心人物と言われておりますが、天皇になった時が高齢、また在位は668~672年と5年しかありません。

日本書紀には激しい戦いがあった様子が描かれているようですが、大将が皇族とは言え、地方の豪族(東軍)の反乱に、天皇家が敗れたことは、天皇家の軍事力は弱かったことが推察されます。

以上のことから、大和政権というのは、それほど大きな軍事力や統率力を持っていなかったことが示唆されます。また、このことは、先に指摘しましたように、大和政権が百済支援のために大規模な軍隊を派遣したという日本書紀の記述は信用できなくなります。

まとめますと、大和政権というものは、豪族の支える小さな王権であり、支配していたのは畿内の一部だけだったというのが見えてきます。そして、地方の豪族には、大和政権の命令に従わない者も多数あった様子が見えてきます。

しかし、壬申の乱の後、豪族の力は弱くなり、勝者の天武天皇(もと大海人皇子)は強大となり、この結果、中央集権化が進み、その結果、後の藤原京、そして奈良の平城京という大きな都建設に向かう契機になったと思われます。


天皇と名乗ったのは天武天皇が最初と言われていますが、以上の事実から察しますと、彼が日本における最初の最高権力者と思われます。

関連し、下の図は壬申の乱の戦いの構図です。また、上トップに壬申の乱のときの様子を示しました。


壬申の乱の西軍と東軍の構図


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