天武天皇が日本を統一した初めての天皇
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レインボー

天武天皇が日本を統一した初めての天皇(日本の古代)
前回、壬申の乱に勝利した天武天皇(大海人皇子)が最初に天皇と名乗ったことを紹介しました。関連し、天武天皇が日本を統一した最初の大王であり、天皇制を確立した大王であったことについて今回は愚考します。
まず、Wikipediaの一部紹介しますと、天武天皇は次のように紹介されています。
(天皇専制と皇親政治)
天武天皇は、一人の大臣も置かず、法官、兵政官などを直属させて自ら政務をみた。要職に皇族をつけたのが特徴で、これを皇親政治という[36]。皇族は冠位26階制と別に五位までの皇族専用の位を帯びた。
しかし皇族が政権を掌握したわけではなく、権力はあくまで天皇個人に集中した[37]。重臣に政務を委ねることなく、臣下の合議や同意に寄りかかることもなく、天皇自らが君臨しかつ統治した点で、天武天皇は日本史上にまれな権力集中をなしとげた。天武天皇は強いカリスマを持ち[38]、古代における天皇専制の頂点となった[39]。
ただ、専制といっても、中国で時になされたような草莽の士の大抜擢は一切なく、壬申の功臣でも地方出身者は旧来の貴族層の下に置かれたままであった。壬申の乱が本質的に皇位継承争いを出なかったこともあるが、日本では最高度の専制においても貴族制的限界が大きかったのである[40]。
日本ではじめて天皇を称したのは、天武天皇だとする説が有力である[41]。一説に、天皇はもと天武というただ一人の偉大な君主のために用いられた尊称で、彼のカリスマを継承するために、天皇を君主の号とすることが後に定められたという。『日本書紀』の持統紀に、単に「天皇」と書いて持統天皇でなく天武天皇を指している箇所があるのがその根拠である[42]。(引用終了)
引用記事をまとめますと、次のような感じです。
まず、天武天皇は、日本史上まれな権力集中をなしとげ、強いカリスマ性を持ち、東海から九州の大地域を支配した最初の大王と思われます。
また、最初に天皇と名乗った大王と言われますが、それに相応しいと思われます。
日本の歴史では、日本書紀の編纂の後、それ以前の大王も天皇と呼称されるようになりました。しかし、それ以前の大王天皇(朝廷)対しては、従う地方豪族は僅かでした。すなわち、天武天皇以前の天皇は、天皇と呼称されるには日本全体の大王のイメージは無く、少し無理がある感じがします。
壬申の乱で、天皇(朝廷)に従わなかった豪族が地方に多数居たことを前回紹介しました。
この他の例としては、磐井の乱(528年)もその可能性が高いと思われます。いわゆる継体天皇(在位:507-531年)が北九州倭国の磐井王と戦った例ですが、日本書紀では朝廷が磐井を破り、北九州倭国が滅びたようになっていますが、事実は違った感じです。
すなわち、筑紫国風土記によれば、磐井は大分の方に逃げたとあるし、北九州倭国の属国だった新羅がその後も朝貢を続けたと新羅の歴史書に書いてあります。何よりも九州最大と言われる前方後円墳(岩戸山古墳)が磐井の墓というのはおかしな話です。朝廷に反逆したなら逆賊となり、大古墳など残す余裕はありません。
詳しくは「倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係」を参照願います。
すなわち、継体天皇は、それまであったツングース系王家を滅ぼしましたが、その力は西日本の全豪族を動かすことができるほどの力は無く、倭国の磐井王に勝つことができなかったのが真相と思われます。
続いて、歴史的事件として、白村江の戦い(663年)がありました。拙ブログでは、それは北九州倭国と唐・新羅連合軍の戦いであった観ていますが、日本書紀によれば、第一派:1万余人(船舶170余隻)、第二派:2万7千人、第三派:1万余人、合計4.7万人の軍隊を送ったとあります。この人数は当時の日本人口の1%以上であり、総力を挙げた戦いとも言われます。
しかし、その戦乱がすぐ終わったところから見ると、その日本書紀の内容も疑わしい限りです。詳しくは「白村江の戦いの真実、日本書紀は創作」を参照願います。
まとめますと、天武天皇以前の大王は、天皇と言えるほどの権威と権力は無かったのが真相と思われます。
関連し、天武天皇による日本統一までの経過表を上トップに示しました。

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