fc2ブログ

我が国最初の都は大宰府愚考

0 Comments
レインボー

倭の五王時代の都は大宰府


我が国最初の都は大宰府愚考(西日本の古代)

これまで、倭国滅亡(663年)と壬申の乱(672年)を経て、関東および東北地域を除く日本がヤマト朝廷によって統合されたことを検討してきました。関連し、今回は、ヤマト朝廷と北九州倭国の都について愚考します。

拙ブログでは、現天皇家の始まりは継体天皇(在位:507-531年)と観ています。その理由は、記紀に記載されている天皇について、継体天皇以前の王については、王宮場所、王墓の場所が確認されていないこと、天皇として存在した物的証拠が巨大古墳以外にないためです。

このため、巨大古墳を残した王家は歴史的に抹殺されたと拙ブログでは観ています。その理由は簡単で、いくつもの巨大古墳建造のために疲弊した民衆の怒りが大きく、その王家は抹殺されたためと思われます。詳しくは「巨大古墳建造とツングース系王家の盛衰」を参照願います。

そして、継体天皇以降の王宮場所を示しますと下表のとおりです。Wikipediaの報告をまとめたものですが、王宮遺跡が確認されていない場所もあります。そして、王宮が固定されている年数は少なく、一代の王が何度も王宮を変えている場合も見受けられます。

古代の王宮場所(継体天皇以降)

これらのことから、26代の継体王から39代の弘文天王までは小さな王宮であったと推察されます。これは、王権はあっても支配地は小さく、このため、平城京のような大きな都建設はできなかったためと推察されます。

そして、中国に習い条里制をもった都がヤマトに現れるのは40代の天武天皇からで、藤原京が初めてです。

天武天皇が壬申の乱の後、巨大な支配地域と力を持つようになったことを先に検討してきました。藤原京は、その巨大な権力を持った天武天皇が676年に建造を始め704年に完成させたものですが、それが我が国最初の都と言われております。その意味で、天武天皇は名実共にヤマト政権の大王になったと理解できます。

一方、ヤマト政権と並んで政権をもっていた北九州の倭国の都について検討しますと、それは大宰府と言われております。また、大宰府の条里制は藤原京のモデルになったとも言われております。

そのことに詳しいブログ仲間の記事「太宰府は、倭国の都だった! 太宰府遺構が物語ること」によれば、その都の建造時期は5~6世紀で、条里制に基づいて作られていました。5世紀は倭の5王の時代で、倭国全盛時代であり、それは歴史的事実とも合致します。

まとめますと、畿内政権の本格的な都は、8世紀初頭の藤原京(704年完成)ですが、倭国は、それより250年早い5世紀に条里制に基づく都(大宰府)を建設したことになります。

関連し、5世紀の様子を上トップ図に示しました。

なお、倭国の都「大宰府」が歴史から消えた理由に言及しますと、少なくない研究者が指摘していることですが、ヤマト政権を我が国唯一の政権と見せるため、国史である日本書紀で倭国の歴史を抹殺したためと思われます。

このことは、継体天皇が奈良・大阪にあったツングース系王家の歴史を抹殺したことと同じことです。そして、ツングース系王家が残した巨大古墳ですが、それらは現ヤマト朝廷が残したものとして日本書紀で扱われております。

日本書紀は、ヤマト王朝が我が国唯一の王朝であったというストーリイを創るため歴史改竄したものと思われます。

日本の古代史は戦前と変わっていない」と言われます。この日本書紀の歴史改竄は日本古代史解明の阻害になっていることは明らかです。そうした指摘を歴史学会は無視してきましたが、21世紀になっても科学が無視されているのは驚きです。

関連し、日本書紀の歴史改竄の最大の事例です。現天皇家は、万世一系なら朝鮮半島由来のツングース系になるはずですが、実際はアイヌ系であることが、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)で明らかになっています。詳しくは「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。



日本史ランキング
レインボー
Posted byレインボー

Comments 0

There are no comments yet.