天皇中心政治は大宝律令制定後に実働した
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レインボー

天皇中心政治は大宝律令制定後に実働した(日本の古代)
「強大な万世一系の天皇が居て日本を統治してきた」、という古代史観が戦前にありました。この観点は根強く、現在も変わっていません。
しかし、現実を観ると、天皇家は、朝鮮半島由来の弥生民族と思われてきましたが、DNA分類の結果は継体天皇(在位:507-531年)由来のアイヌ系であることが明らかになりました。このことは、天皇家は万世一系ではなかったことになります。
また、現天皇家の王家が天皇と名乗ったのは天武天皇(在位:673-686年)が初めてで、それ以前は大王(おおきみ)でした。そして、政治は豪族を入れた合議制で行われていました。これも初めから強大な天皇がいたわけではないことを示します。
そして、そうした豪族合議制を変え、天皇中心の政治を目指たのが、大豪族の蘇我家を滅ぼした乙和の変(645年)でした。しかし、乙和の変の天皇中心政治という目標は失敗に終わりました。そのことを証明したのが「壬申の乱」(672年)でした。
「壬申の乱」では、正当な天皇側(天智天皇側)を支持する豪族が少なく、東側の豪族連合(後の天武天皇側)に圧倒されました。このことは、天皇側でなく豪族側が勝利したこと、すなわち、天皇中心の政治は否定されたものと思われます。
しかし、歴史のパラドックスなのか、以上の結果、天武天皇が天皇になりましたが、天皇と並ぶ大豪族は無くなり、天皇が強大な権力を初めてもつことができるようになりました。そして、その強大な権力を背景に、中国と同様な条里制に基づく都「藤原京」を日本の中心地の奈良の地に建造したことを前回検討しました。
さらに、天武天皇は、天皇を頂点とする日本国家統治機構の基本となる「大宝律令」(完成701年)の制定を起案したと言われます。
大宝律令は、その後の政治体制の基本となりましたので、まさに、天武天皇時代に天皇を中心とする統治体制が出来上がったと思われます。
前置きが長くなりましたが、関連し、大宝律令が、どのようなものであったのかについて、今回は愚考します。
まず、Wikipediaによれば、大宝律令制定の背景は次のとおりです。
大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。刑法にあたる6巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。
この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。
また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。(引用終了)
引用記事をまとめますと、この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立したことになります。
一方、乙和の変(645年)~大宝律令制定(701年)に行われた「大化の改新」を律令国家の始まりと観る説があります。しかし、その後の壬申の乱(672年)を観ると、中央に対する地方豪族の反乱であります。すなわち、「大化の改新」はほとんど実施されていなかったのが実情と思われます。
因みに、大豪族の蘇我氏を滅ぼし天皇中心の政治にしようとした「大化の改新」ですが、それを行ったのは天智天皇(もと中大兄皇子)でした。しかし、天智天皇崩御後の壬申の乱(672年)で、天智天皇グループ(天皇側)が東海・東山地域の豪族グループ(後の天武天皇側)にあっけなく敗北したのは、「大化の改新」が豪族に支持されていなかったことを示します。
その意味で、「大化の改新」は理想物語だったことになります。そして、壬申の乱(672年)を経て大豪族の力は弱まり、その結果、天武天皇によって日本が統一され、「大化の改新」の仕組みが大宝律令(刑法)の発足とともに実際に始まったのが真相と思われます。
関連し、乙和の変(645年)~大宝律令制定(701年)の歴史経過を、上トップ図に示しました。

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