壬申の乱の背景には滅亡した蘇我家の怨念があった

壬申の乱の背景には滅亡した蘇我家の怨念があった(記事まとめ)
壬申の乱(672年)に勝利した天武天皇が、巨大な権力を握り、初めての都建設や大宝律令制定など天皇中心政治のための日本骨格を創ったことを検討してきました。
今回は、記事まとめとして、天皇中心政治の契機となった壬申の乱の背景について愚考します。
まず、Wikipediaによれば壬申の乱の背景次のとおりです。
乱の原因
壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。
皇位継承紛争
天智天皇は天智天皇として即位する前、中大兄皇子であったときに中臣鎌足らと謀り、乙巳の変といわれるクーデターを起こし、母である皇極天皇からの譲位を辞して軽皇子を推薦するが、その軽皇子が孝徳天皇として即位しその皇太子となるも、天皇よりも実権を握り続け、孝徳天皇を難波宮に残したまま皇族や臣下の者を引き連れ倭京に戻り、孝徳天皇は失意のまま崩御、その皇子である有間皇子も謀反の罪で処刑する。また天智天皇として即位したあとも、旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって唐にならった嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指すなど、かなり強引な手法で改革を進めた結果、同母弟である大海人皇子の不満を高めていった。当時の皇位継承では母親の血統や后妃の位も重視されており、長男ながら身分の低い側室の子である大友皇子の弱点となっていた。これらを背景として、大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、絶大な権力を誇った天智天皇の崩御とともに、それまでの反動から乱の発生へつながっていったとみられる。
白村江の敗戦(略)
額田王をめぐる不和(略)(引用終了)
上記Wikipediaをまとめますと、天智天皇と弟の大海人皇子(後の天武天皇)の間に対立が起き、そのため両者が戦ったことになります。しかし、その対立が東国グループ(反朝廷側、大海人皇子側)と西国グループ(朝廷側、天智天皇の子供の大友皇子側)の対立という大きな戦いに発展した原因については説明できていません。
そこで、当時の豪族と天皇の力関係状況を愚考すると次のとおりです。
まず、朝廷側(天智天皇側)ですが、天智天皇はもと中大兄皇子で、中臣鎌足と共同して、当時のリーダーであった蘇我入鹿の暗殺(乙和の変 645年)を企てた本人です。さらには、上記にありますように、その後、当時の孝徳天皇やその皇子に対し、無礼な行為をしています。
そこで、問題となるのが、そのクーデター(乙和の変)は豪族に支持されていたかです。当時は、天皇+豪族の合議制で国は運営されていましたが、そのリーダーは蘇我家でした。蘇我家の横暴は知られているところで、そのため滅ぼされたという理由は分かります。
しかし、そのクーデターに参加した豪族は中臣家以外に無く、その他の豪族の支持は得られていなかった可能性があります。また、天智天皇(在位:668年~ 672年)が天皇に即位する時期が遅れたのは、周囲の支持が少なかった可能性もあります。
拙ブログでは、アイヌ系の継体天皇がツングース系王家を滅ぼしたとき、蘇我家も同じアイヌ系で重要な役割を担っていて、そのため大豪族となり、豪族のまとめ役になっていたと観ています。詳しくは「蘇我家のルーツ愚考」を参照願います。
蘇我家がアイヌ系となると、そのルーツはアイヌ系の多いところ、言い換えると縄文遺跡の多いところ、すなわち、ヤマト(奈良)の近くでは、岐阜、静岡、愛知、三重の地域がこれに当たります。これらの地域は、壬申の乱で東国グループ(反朝廷側)と同じ地域に当たります。詳しくは「壬申の乱は初めから東軍が優勢だった」を参照願います。
もし、蘇我家滅亡に関し、アイヌ系と同胞の東国グループが怨念を持っていたとすれば、東国グループは反朝廷側に着きやすい雰囲気があったことになります。そして、こうした東国の怨念を利用し、反朝廷側の大海人皇子は東国を味方に付けたのではないかと思われます(下表参照)。

一方、朝廷側(西国グループ)ですが、天智天皇を支えた豪族は、天智天皇の横暴もあり、味方する豪族は少なかったことは知られているところです。
以上の結果、西国グループ(朝廷側)は、人数でも勝る東国グループ(反朝廷側)に圧倒されたのではないかと思われます。
そして、この一連の戦いで、蘇我家、中臣家など大豪族の力は弱まり、これらの戦いに勝利した天武天皇は強大となりました。その結果、大化の改新(645年~)では天皇中心政治という目標は理想に終わりましたが、壬申の乱の後に強大な天皇を中心とする律令国家が実現したものと思われます。
関連し、壬申の乱の背景、および豪族合議制から天皇中心の律令国家になった経過を上トップに表で示しました。

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